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ホツマ標(しるべ)~ホツマ読み解きのへそ~⑦ 「天忍日命を復権させた策謀」 <132号 令和6年4月>

 大伴一族に関する論考は、本誌106号と107号に今村氏が『ホツマ古代氏族考 大伴氏』にて、また小生も103号に『梅を巡る考察と古代氏族「大伴氏」』と題して発表しています。

 古代史の通説となっている
「大伴一族の遠祖は天忍日命(またの名を天押日命/または神狭日命)であり、瓊瓊杵尊の天孫降臨に随伴し、その三代後の子孫である道臣命は神武天皇の東征に貢献した、まさに武人の古代名族である」という捉え方は、巧妙なデッチ上げであり、恐るべき策謀であったと今村氏も私も、理解しています。

 このことは、ホツマ伝承に親和的につながるはずの「古今伝授」が、何故ホツマツタヱを隠したのか、の疑問の答えとなります。さらには、そもそも何故ホツマツタヱが記紀成立後に禁書化され、しかもそれが堅く守られたかに係わる重要なテーマです。

伴林氏神社のご祭神

 大伴氏の系譜を紹介する時によく取り上げられる神社があります。大阪府藤井寺市鎮座の伴林氏神社です。公式サイトの御由緒書きに次のようにあります。

【守護の神 天押日命(あめのおしひのみこと)
大伴連の遠祖。高御産巣日神から5代目に当たる子孫で、高天原の武神です。『日本書紀』には、皇孫・天津彦彦火瓊瓊杵尊が 高天原から日向の高千穂に降るとき、天津久米命と共に、背には丈夫な矢入れを負い(略)御前にお仕えした神として記されています。 『古事記』『日本書紀』では「天忍日命」、他文献では「神狭日命」と表記されています。】(公式サイト)

 伴林氏神社は、大伴氏の支族が創建したと考えられている神社ですが、主祭神は、高皇産霊神。配祀神として天押日命と道臣命を祭ります。興味深いのは、
【日本三代実録によると貞観9年(867年)条に当社が官社へ列したとあり、貞観15年(873年)には祭神の天押日命が従五位下に叙せられたという記述】があります。(Wikipediaより)

 問題はこのタイミングです。

 大伴一族は、貞観6年(866年)の応天門の変(藤原良房の暗躍事件)で伴善男が失脚し、急速に衰退していったのですが、まさにそのタイミングなのです。

ハタレ根の「抜擢」

 さて、そもそも「天忍日命」「神狭日命」とは、ホツマツタヱが伝える「アメオシヒ」「カンサヒ」親子(順序が逆ですが)のことです。

 カンサヒとは、トヨケ大神の子供であり、ヤソキネやイサナミの兄弟です。抜群の血統ですが、シラヒト・コクミ事件を放置していた失政を弟のツハモノヌシに告発された、役立たず神なのです。

 アメオシヒ(天忍日命)は、カンサヒの子。モチコの斡旋で寡婦のクラコを娶り、父カンサヒの後を受けてサホコチタル国のマスヒトになるのですが、その祝の恩赦により死罪を免れたシラヒト・コクミを再び召し抱えた張本人。妬みと嫉みの権化と化したモチコ・ハヤコ姉妹に取り込まれて、タカマの朝廷に背き、六ハタレ蜂起の原因となった極悪人です。六ハタレの根源なので、『ハタレ根』という悪名がついています。「忍日」や「狭日」という漢字表記は、本来の行跡を反映していたとも感じられます。

 そもそも天忍日命が、ニニキネの全国行幸に同伴したという話自体が架空のデッチ上げです。記紀編纂の影のプロデューサーであった不比等は、①天岩戸神話②三大神勅の場面において、本来登場していない天太玉命を「抜擢」して重要人物に仕上げているのですが、ここでも登場人物のすり替えをおこなっていると見て間違いないでしょう。

 記紀編纂のタイミングにおいて、不比等は「アマノコヤネ&フトタマ」のチームを組むことで、強力なライバル一族であった「大伴」を追いやることを画策していたと筆者はみています。

大伴氏封じ込めのヒミツの鍵

 前述の伴林氏神社の官社格上げや叙位は、藤原一族による大伴氏排斥の最終段階で行われたわけで、そもそもこの神社では元々は「天忍日命」を祭ってはいなかったのかも知れません。

 けれども、記紀神話や神社祭神をすり替える策謀を結実させたことにより、藤原一族は、得がたい「ヒミツの鍵」を独占することが出来たのです。

ヒミツの鍵とは、すなわち、

1. 大伴一族は、ニニキネの血統を承け、日本武尊にも親しく、武力と文化力(歌謡伝承力)を持つ、藤原氏にとっての恐るべきライバル

2. だが、その遠祖を「ハタレ根」と決めつけることで、『ホツマツタヱ伝承』の(大伴一族による)発掘を封じ込めることが出来て、しかも天太玉命一族と手を結ぶことが出来る

3. 大伴氏支族に「天忍日命」祭祀を課すことで、本来の先祖祀りを途絶させ、同時にその動向を監視することが出来る

 こう考えると何とも深謀遠慮なはかりごとです。

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 今回の論考は、かなりマニアックです。ホツマツタエが何故、隠されるに到ったのかということを考える時に、系譜的に「当然にしてもホツマツタエに知悉していたであろう」と思われる一族に興味が向きます。大伴一族は、そのひとつです。
 令和の年号の典拠となった万葉集の歌。歌人の大伴旅人は、歌人として名だたる人物ですが、古代名族の大伴氏は、武人として皇室を支えた一族です。ヤマトタケのヱミシ討ちに随行し、大活躍したオオトモタケヒは、伊勢神宮創建に際しては皇太子の名代となる重責を果たした人物で、ヱミシ討ちの功で甲斐と駿河の二国を賜わりました。帰還時のエピソードで、歌心に優れていたこともしっかり記述されています。
 ですが、この大伴一族の「今に伝わる」系譜には、謎が深いのです。その裏側を探ると、この古代名族とせめぎ合っていた藤原一族の策謀が浮かび上がってくるのです。藤原不比等が指示したであろうと思われる「重要な史実の改竄」が、この名族の衰退を引き寄せていたと観て間違いありません。

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 さて、筆者とらさんが親しくさせて頂き、旅や酒を重ねての語らいを楽しませて頂いた友が、先日天界に旅立ちました。まだまだ人生これからと意気込むとらさんと同い年だった彼は、60余年の人生を早々と駆け抜けて逝ってしまいました。
 朝夕のみそぎを行じつつ、駒形一登の安らかな天元還りを祈っています。

駒形一登の全仕事

ある動画をつらつら観ていたら、共感するところがありました。↓


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