見出し画像

東大生タレントと2000年代中盤の大学案内に通じる、”親近感”と”ギャップ”がつくる面白さをどう捉えるか。

テレビを見ていると、最近よく東大生タレントを目にするようになりました。東大生タレントに対して、好印象も悪印象もないのですが、この東大ブランドの打ち出し方に、ひと昔前の大学案内の打ち出し方をかさねてしまいます。おそらく、うんうんと頷いてくれるのは、大学の入試広報関連の人か、私のように大学広報に関わる外部業者ぐらいしかなさそうなんですが、今回はこれについて書いていこうと思います。

なんとなく重なるなぁと感じるのは、私がこの仕事をはじめてすぐの頃になる、2000年代中盤から後半の大学案内です。大学案内自体、1990年代中盤からつくられるようになり、当初は単純なマニュアルでした。そのマニュアルから内容が洗練されていくなかで、「雑誌みたいな大学案内」をつくりたいという要望が、いろんな大学から出てくるようになります。こういった要望が、2000年代の中盤から後半にすごく増えていったんですね。

伝えるべき内容がガチガチに決まっている大学案内は、内容を根本的に変えない限り、雑誌のようにはならないのですが、当時はそれでも何とかならないかとよく考えていたものです。

ではなぜ、大学案内に雑誌のような表現を取り入れたがるのか。これは言い換えると、なぜ大学案内が雑誌のような表現をするとウケる(と思う)のか、ですが、根底のところにあるのはギャップです。大学という高等教育機関が、雑誌という高校生たちにとって身近な表現で情報を伝えようとしてくれる。そこに親しみや驚きを感じるのだと思います。でも、これは見ようによっては、ブランドの切り売りだともいえます。だって、遠くにあったものが近くに、高みにあったものが自分たちの目線に合わせにきてくれる、それは権威が権威でなくなることに面白みがあるとも取れるからです。

東大生タレントには、どうもこれと似たものを感じてしまいます。学生がクイズに四苦八苦している姿に面白さを感じるのは、それが単なる学生ではなく、東大生だからです。もちろん東大生のなかには、起業をしたり、社会問題を解決しようと尽力したり、先進的な研究に心血を注いでいたりと、学生らしからぬスーパーマン的な人物もいるでしょう。でも、人によっては…、とくにテレビをよく見る子供たちのなかには、東大生=頭がよくてクイズが強い人、というイメージができあがっている人もいるように思います。

大学案内であれば、大学が自らの判断で自校のブランドを切り売りして情報発信をしたわけで、その判断も結果も自分たちのものです。しかし、東大生タレントについては、大学がコントロールできないところにあらわれ、人気が出たり出なかったりしながら、東大ブランドを勝手に売られていきます。なかには、卒業してもずっと、東大の冠をつけて活動する人もいるわけです。これって、けっこう怖いなぁと思います。

でもだからといって、東大タレントなんていなくなればいい!と、私が思っているかというと、そうではないんです。もうちょっと正確にいうと、大学には、そういうことを取り締まって欲しくない。大学はできる限りおおらかであるべきで、学生のいろんな自己実現に対して、法にでも触れない限りは見守ってあげて欲しい。一方、学生たちは、場合によっては自分たちの行動が、大学のブランドのうえに成り立っていたり、ブーストされていたりすることを理解してもらいたい。

これって別にタレント業だけじゃないんですよね。私自身、学生時代を振り返ると、ゼミでの調査活動で企業の人にたくさん協力してもらいました、しかも無料で。学生という身分であったり、出身大学への信頼があったからこそできたのだと思います。当時は、そんなことまったく気付いていませんでした。学生時代、自分が出身大学の学生であることは、あまりにも当たり前で、空気みたいなものなんですよね…。

大学がこういったことを学生に説明すると有り難みがなくなるどころか、学生たちから反発されてしまいそうです。でも、学生が自ら気付くのは、なかなか難しい。そういう意味では、私のような部外者が言うのが、実はいいのかもしれません。なんにしろ、大学には大らかさを、学生には理解と敬意を、互いにそんな気持ちがあれば、両社の関係はもっとステキになるんじゃないかなぁと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?