「地域をなんとかするため」の闇
「意味のあるようで意味のない言葉を使ってはいけない」
「この島をなんとかする」という意気込み
私の暮らす「さぬき広島」は人口180名弱。本当に小さく、子どももいない島であり、加えて90パーセント以上が65歳以上の高齢者という島である。
とはいえ、180名とはいっても、それぞれにそれぞれの思惑があり、中でも
「この島をなんとかする」と意気込む人たちの鼻息は荒い。
その姿勢そのものは見ていて清々しいのであるが、一移住者として感じるのは、「なぜ島をなんとかしなければならないのか」という視点の不足である。
たぶんこれは島だけでなく、多くの日本の中山間地域や過疎地が抱えている問題ではないだろうか。
そもそも「なんとかする」とは何か?
たとえば、島の話でいえば、カフェを作ればいい!商店を作ればいい!と色々と「方法」は島民から意見が上がる。
とはいえ、なぜその方法なのかという問いは一向に深まることはない。
私自身も「なぜその方法なのですか?」と質問してみると、たいてい回答としては
「島を何とかするため」「島を盛り上げるため」
といった答えのようで答えでない回答が返ってくる。
「なんとかする」といっても、現住民の生活の質を向上させることと、移住者を獲得することははっきりいってベクトルの異なる問題である。
だからこそ「なぜその方法なんですか?」という問いに答えるためには、願わくば地域全体として、少なくとも個々人が個々人なりに「なんとかするとは何か?」について具体的な回答を持っておく必要があるのだ。
「なんとかする」ことが多すぎる
近くで見ていて一番感じるのは
「なんとかする」ことが多すぎることだ。
確かに、できることは何でもやった方がいい。
ただ、それぞれの質を落としてまで、新しいことに挑戦する必要はあるのだろうか。
現在島では旧邸宅の簡易宿所営業について、議論が紛糾している。
それだけでもなかなかに大変なのに、いつの間にやら、一部の島民によって「なんとかする」の名目の下、新しいチャレンジが始まっていたりする。
それに巻き込まれる島民、そして行政が疲弊していくのを見ていると、やはり「なんとかする」の意味を明確にすることの大切さを感じるのである。
地域は一人舞台じゃないから
別に個人が目的や意味を持たずに、色々なことに手を出すのは全く構わない。実際、それらが無かったからこそ、見えてくる地平もあるだろう。
ただ、地域という単位においては、やはりそうもいかないのではないだろうか。
目的や意味なくとにかく「なんとか」しようとして、その周囲で疲弊していく人たちがいる。
そして、喧嘩や仲違いが起きる。
このような光景は、「なんとかする」の闇としか思えない。
地域は一人舞台ではないのだからこそ、「なんとかする」の意味や目的を明確にしておく必要があるのだ。
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大学院時代の指導教員はこう言いました。
意味のあるようで意味のない言葉を使ってはいけない
この教えの大切さを今、ひしひしと感じます。
「なんとかする」「いろいろ」「盛り上げる」なんていうのはきっと「意味のあるようで意味のない言葉」なんだろうなと。
今回は、
答えのようで答えでない言葉
と言い換えましたが、この表現は指導教員の表現を参考にしたものです。
というわけで、本日はこれにて!
ご清読ありがとうございました!
次は週明け月曜日です!