立ち直るときに一番大切なのは、あいづちを打ってくれる人がいること。
「 困っている人の話をただただ聞いて、そこから考えればいい」
小森はるかさん、瀬尾夏美さんに聞く
2022年11月11日から岡山映画祭が開かれます。
そこで上映される予定の「二重のまち/交代地のうたを編む」の監督の瀬尾夏美さん、小森はるかさんと、ほっと岡山代表・はっとりいくよの鼎談の様子をお伝えします。
服部 この映画は、とても大切だと思いました。多くの方に観てほしいし、被災者支援や福祉の現場の方、傾聴に関わる方にもぜひ観てもらいたいと思ったんです。
お二人がこの映画を撮るまでのきっかけは何だったんでしょうか?
瀬尾さん 私と小森さんは東京の美大の同期でした。大学院に上がる直前の春休みに東日本震災がありました。これまで通りに作品を作っていいのだろうか、何をしたらいいかわからないと思うほど驚きました。でも、今起きていることをきちんと見て考えて、体験している人と対話をして、記録する──そういうことをやらないと、ダメかも、と感覚的に思いました。それで、まずはボランティアに行こうということになって、最初に一緒に行ったのが小森さんでした。そのボランティア作業のかたわらで、地元のおじいさんやおばあさんが話しかけてくれるんです。「私も被災したけど、私より大変な人たちもいるんだよ」と言った感じで。いろいろ大切な話を受け取ってしまって、どうしたら良いんだろう……と考えました。それが原体験です。聴かせてもらった話をどのようにして他の人たちと共有するか、が私たちの中の問いでした。
私たちにできるのは「記録」だ、と思って、その後、沿岸各地で被災を伝える会をやっていたんです。
1年間くらい被災地域と東京を行き来する中で、世間の関心は震災からどんどん離れていきました。でも被災地では、まだまだやること、伝えなきゃいけないことがたくさんある。その一方で、私たちには、現地で起きていることのディティールを理解して伝えるために必要な知識や技術や、変化を見るための目が育っていない。それならいっそ「住んでしまおう」と思って2012年から3年間、陸前高田に住んでいました。
3年間住んだ後、仙台に引っ越して、通いながら作品を作るスタイルにしたんです。同時に、神戸、新潟、広島など旅をしながら、被災の展覧会を各地で開催して、その土地で出会う人びとにもいろんな話を聞くことができました。そうこうしているうちに陸前高田では2017年の春、嵩上げ地の上に商業地ができたんです。
それまで街の人は、被災して街が流され、風景が変わってしまったことにショックを受けていました。そのあと、家の跡地に花をたむけに行ったり、周辺に花を植えたりしながら、街の人同士がコミュニティを再編成していくような時期があった。
でも、嵩上げ工事で、その風景も再びなくなっていくんですね。共有していた風景がなくなっていくことへの寂しさがあって、「忘れてしまうことが怖い」「見えなくなることが悲しい」と、みな話していました。
でも、実際に新しい街ができてみると、店をたて、家をたて、新しい生活が始まるので、ポジティブに日常を進めていく時期がに入っていく。それと同時に、陸前高田では日常会話にはあまり震災の話が出なくなっていったんです。
一方でそのくらいの時期になると、被災地域から遠い場所で生まれ育った若い人たちが、「僕は震災の時に小学生だったので、何もできませんでした。何かできることありませんか」という感じで、これまでと違う形で震災に関わりを持とうとしていたんです。
そんな時に、陸前高田の人たちと彼らが出会えば、「この子たちに話してみたいな」という形でやり取りが始まって、「継承」の現場が生まれるんじゃないかなと思って、ワークショップを計画したんです。
小森さん 陸前高田の人たちも、震災前にあった自分たちが暮らしていた故郷と、震災で失った故郷と、これからできる新しい故郷の狭間で、すごく苦しい状況だったと思います。私たちも3年間そこに住みながら、同じように戸惑っていました。
「 二重のまち」という瀬尾が2015年に執筆した物語作品を、数年間、展覧会で訪れた地域で朗読してもらうワークショップを行ってきて、陸前高田の人にも朗読してもらいました。作品が声になり、震災前も震災後も見たことのない風景を想像し、その想像をさらに伸ばす──そういった朗読の効果と「二重のまち」という少し先の未来を舞台にした物語作品はぴったりでした。
声にすることで想像を伸ばしていく人たちを主人公に映画を作りたいと思いました。今までの活動の合流地点になって、2018年にこの映画の制作が始まったんです。
服部 経験を自分で語るって、難しさもあると思うんですね。その表現が他者に移って、身体性を伴う。映画では、不思議な伝わり方をしていました。長回しで、登場する人の息遣いがなぞられている感じがすごくよかったんです。
小森さん 4人の旅人たちの言い淀みを、大事にしたいなと思って編集をしました。「伝えたいけど伝わらない」「この言葉でいいのか」という葛藤、表情、身振り、場の流れ方が、長回しという形で伝わったのなら、嬉しいです。
服部 経験を伝えたいけれど、一方で、どうしてもドキュメンタリーや記事にされると、変にまとめられてしまうところがありますよね。実際に、語りたくなくなっちゃうという取材もあったりしました。
瀬尾さん 語れる・語れないは、コミュニティによっても変わりますよね。家を失った・失ってない、家族を失った・失ってないなど、被災の程度によってどこまで聞いていいかわからなくて戸惑う。それは街の中でもずーっとあると思うし、今でも残っていると思います。
2021年の3月、陸前高田にも亡くなられた方全員の名前が刻まれた石碑ができたんですが、街の人が「あーこの人やっぱり亡くなっていたんだ」「あーこのお父さんも。直接聞けなかったけど……」と話していました。親しい間柄でも聞けないことがずっとある状態で暮らしているんですよね。
それでも陸前高田の住民は同じ経験をしたという感覚もあって、痛みを共有したり、一緒に泣いたり、ただ一緒にいるというだけで伝わるものがあったりします。でも、県外に避難して、その場所から出てしまった人のほうが、思いを共有できる人がいないことに対する苦しさを抱えていました。
陸前高田の小学校で被災を経験した先生が、他の街に転勤するのがすごく怖いと話していて。自分の気持ちをわかってもらえないんじゃないか、ということへの恐怖があったんですね。
服部 まさに、原発事故の広域避難者が抱えている問題です。「言ったところでわかってもらえるのか」と、戸惑いますよね。
瀬尾さん 実は、以前この映画を見た福祉職の友達が、「当事者性の回復を描いた映画だね」と言ってくれたことがありました。直接的な大きな被害を受けていなくても、地震で揺れたり、ニュースで情報を見たりという形で、みんな震災を経験している。だけど、「自分が関わっていいのか」と戸惑っている人も多いと思います。
「 二重のまち」のワークショップの前半、旅人たちは、ただただ「話を聞く」。うまく相槌もできないし、わからないことだらけかもしれないけれど、それでも関わってみる、ということをしてみると、彼ら自身の当事者性が、陸前高田の人にも認められていく。そうやって、小さな出会いと会話を重ねて、「自分も関わっていいんだ、自分はここに居たかったんだ」と和解していくそのプロセスがすごく大事だと感じています。継承においてもですが、たとえば誰かのケアをするという時にも、「ケアする側の当事者性」が認められていくプロセスは重要だなと思いました。
安心できる場で「語れる」ことの大切さ
服部 避難者の方との他愛ない話の中で、ふと「ここに来て、初めて自分の避難のことを振り返った」とか「今まで振り返らなかった」と語る人も多くて、「語る」ということが、ものすごく大切なんですよね。
瀬尾さん 「語る」ことは、起きたことを受け止めていくプロセスとして重要だと思うんです。体験を整理して、ある意味で自ら編集して語っていくなかで、「自分の物語」になっていく。そのために、安心して語れる、あいづちを打ってくれる人がいることは、立ち直っていくときにものすごく大切です。
でも、日本のコミュニケーションでは、「聞いちゃいけない」というのが強くて、それが弊害にもなっている。
韓国だと、大きな災害のあとには、真っ先に「心のケア」が入るそうです。日本だとまずは「モノ」を作って直していきますよね。確かに家などの「モノ」によっても安心感は得られるけれど、その前に、何が起きたのかを語り合い、一緒に考えてくれる人の存在ことが必要だと感じています。
服部 戦争を経験された方も亡くなる直前に語ることがありますよね。壮絶な体験で、語ることができなかった。
そういう相手の思いを大事にしたいと思っていて、支援の現場でも、本人がどう生きていきたいか、ということに気をつけています。「主体を真ん中に置く」というシンプルなことに、行政の人にも気づいてほしいと思うことが多いです。
瀬尾さん 困っている人の話をまずは聞いて、そこから一緒に考えればいいんじゃないかなと思うんですけどね。本来は、支援者も被災者も、両者がちゃんと人間として出逢えればコミュニケーションがとれるはずなのに、現状結構難しい。
支援をする側の人たち自身も、余裕がないことが多いです。お金も時間も人も、圧倒的に足りない。だから、ケアをする側、支援者が持っている当事者性が無視されてしまって、話を聞いてもらえていない。
被災から時間が経ったこともあり、私たちはむしろ支援したい、関わりたいと思いつつも戸惑っている人たちを支えたい、勇気づけたい、と思うようになりました。「遠くにいたから」「子どもだったから」と話す人たちに、「大丈夫」と。彼らの存在が認めてもらえるというプロセスを大事にしたかった。
服部 そこに共感したんです。戸惑いや、誠実であろうとする気持ちが、長回しのところから溢れ出てくる。だけど、受け止めてもらった感覚が、得られたのでは、と思いました。
小森さん 4人の若い旅人が聞き手になったおかげで、陸前高田の若い人たちもこの映画に関わってくれて、彼らの話を聞くことができました。それは私たちだったら難しかったと思うんです。
「 聞いちゃいけないかなは、お互いにあるよね」とか、「陸前高田の高校生だけど、県外からきているあなたと同じくらい被災者だと思ってない」とかそんな言葉が自然と聞こえてきました。お互いに「同じなんだ」という接点を掴もうとする場面がすごくいいなと思いました。語りづらさをなだらかにしている瞬間だと感じました。
服部 そうですね。語りづらさを超えて、自分の物語にしていく手前で、今ある物語を伝えてみることは、大切だと思っています。相談業務では、そこに何年も時間が必要というケースもあります。
瀬尾さん 広域避難者支援の現場では、どういったことが課題なんですか?
服部 交流会や情報支援、相談窓口では、家探しや職探しなどの直接支援も今もありますが、ここ数年は、「避難のことを誰にも話していない」「自分がおかしいのでは」「自分自身を信用できない」とか、自分を肯定的に捉えていないのではと気づきました。だから、原点に戻り丁寧に話を 聞くところに注力しています。
でも、物理的に解決できないこともある。「避難元を元に戻してほしい」「311前に帰りたい」とか、どうやっても叶えられない。相手の気持ちにどう寄り添い続けるか。だからこそ、しっかり話を聞く、物語を紡ぐことをサポートする。〈居場所〉の本当に大切なことはそういうところだと思うんです。
瀬尾さん きっと、被災をしていない岡山の街に飛び込んできた方は、「なんでここにいるんだろう」となっちゃいますよね。
服部 そうですね。避難元には以前のように暮らしている人もいるので、原発避難の人は、「自分が幽霊みたいだ」と言った方もいました。なじんでいくプロセスは時間を要します。避難先でも、被災地でも、次の日朝起きたら日々変わる風景があって、見知らぬ日常があって、少しずつ受け入れていく作業をしているのだろうなと。
瀬尾さん 陸前高田でも、「いつまでも夢見たいだ」という話はよく聞きました。
2020年に、震災から10年目の企画として手記を募集したんですが、60通くらい集まりました。代わりに伝えるという仕事をしてきた私がいうのもおかしいですが、「自分自身で表現してみる」という作業がすごく大切だと感じています。そして、「ちゃんと読んでくれる人たちがいるよ」ということを伝えたいですね。
服部 この社会の抱える「わかりにくさ」にアートの役割は大きいと思います。社会のあらゆる問題は、「普通の生身の人間が何を思っているのか」というところにありますよね。それが、一人ひとりの復興のための、ヒントの一つになるんじゃないかな、と思いますね。
( まとめ 吉田千亜)