【学童保育の現場から 〜気分の爆弾は今日も真上に打ち上がる〜】
前触れなく、結論からになるけれど。。大人になっていく中で、ひとが、感性の世界から、感受性を、いわばダウンロードしてくるのだとして。
そうして身の回りに、センサーよろしく、置いて、そこに引っかかったものをさまざまな、気持ち、つまりは感情と呼ぶことにし、拾い上げ、積み上げてゆくとして。
さらには日々の営みのなかだから、、感情と呼ぶにはまだ若い、未熟な、気分というものが、含まれ。それらは
感受性にしてみればノイズや誤差とみなせる時も、ままある訳で。
そんな時は自ら朽ちるか、あるいは追熟するのを、待って、いっぱしの感情として取り立ててゆくと。いやきっとそうに違いないだろう、として。
そうは行かない時が、いわゆる大人の事情という、くだらない、こころの門限みたいな何かに急かされる縛りが、あって、もうダメだと頭と胸を掻きむしることも、
起きるのだが。。こうなると文字通りお手上げなのだ、けれどもそれは。
バンザイ!と、初めから戦う必要がなかった相手にモロ手を挙げて降参するような、開放感まみれの快感を伴うから。
きっと日々の学童たちとのあいだの中で、見入ってしまう、突きつけられる、そして
なりふり構わずにブン投げてしまっている、あの気分たちを。
もう一度、ゴミ箱から拾い上げる、、いや実は逆の、手順であり、、冒頭にいきなり触れた、感性というあの世からダウンロードしたあの感受性というものに。
送り返す、というか、送り、上げることに。なるのだ。。まるでアップロードするみたいに。(しかも未熟も出来損ないもそれこそ、バラバラのまんまで)
これは、痺れる。。だってまるで不発弾だ。それを打ち上げ花火よろしく
素手で、掴んで、あの見えない真上の世界に向かって放り投げるみたいな、ムチャをはたらくのだから。
わだかまっている暇が、なかなか無い。