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「北風と太陽伝」 #パルプアドベントカレンダー2021

 道を歩く男がいた。大きな荷物を背負い、坂道を一歩一歩踏みしめるように登っている。
 男はふと足を止め、うつむいていた顔をあげる。見上げる坂は長い。頂きは曇天の空に消えている。
 ため息を付く。日が暮れる前に町にたどり着けるとよいが。
 身に滲んでいた汗が体を冷やす。身震いをひとつする。分厚いマントを体にぎゅっと巻き付け、再び歩き始める。
 一息を入れたせいだろうか、荷物がいっそう重たく感じる。

 男の様子を遙か上空から見つめる存在が二つあった。
「あれなど、ちょうどよいかな?」
 一方が他方に男の姿を示して言った。声の主の名は太陽という。この世界に光と温もりをもたらす存在である。その声は朗らかで穏やかな声であった。
「あの男ですか?」
 他方が答えた。こちらは冷たく、荒々しい声であった。北風である。世界中の風の中で一番に力強く冷たいと言われている。
 この二人は先程偶然にこの山の上空で出会ったのだった。

「やあ、そこにいるのは太陽さんかい?」
 先に声をかけたのは北風の方だった。どこか威圧するようにも聞こえる口調だ。本人には相手を臆させようという気持ちはないのだろうが、その低い声と荒々しい語気は聞く者に挑戦的な感じをおぼえさせるのであった。
「やあ、北風さんか。ひさしぶり」
 太陽は北風の口調に微塵も押された様子もなく答える。世界中の風や嵐を相手にしてきた経験から、怯んだ様子を見せることのまずさを太陽はよく知っていた。とはいえ、と内心で太陽は独り言ちる。
――今のこいつは相当に強いかもしれんぞ。

 実際、北風の調子は好調であった。
 北風が風屋一家の頭目を継いだのは先月のことであった。候補筆頭の西風を正面から迎え撃ち、圧倒的な風力(かぜちから)でねじ伏せた。立会風の南風と東風はいささかの瑕疵でもあれば西風を頭目に据えようと算段を立てていた。
 しかし、西風を打ち負かし、ぎろりと睨めつける北風の目に射すくめられたとき、二人の胸のうちに恐怖が湧き上がった。
――もしも下手なことを言ってこいつを敵に回してしまえば、自分一人では手がつけられない。
――あるいは二人で組んだとしても
 目くばせすることさえなく、その思いは互いに伝わり合った。果たして、北風に頷いたのはどちらが先だったか。

 自信の大小は天候の力に大きな影響を与える。頭目を継いだこと、生まれついてからの好敵手を打ち倒したこと、この二つが北風に絶大な自信を与えていた。
 北風の全身にみなぎる自信を見て太陽は胸が冷えるの感じた。今の自分が北風とやりあったとして、確実に押さえつけることができるだろうか? 自信がないわけではない。しかし、仮に、万が一にも失敗してしまえば……
 その不安を見て取ったのだろうか。北風はにやりと笑って太陽に問いかけた。
「調子はどうですか?」
 不敵な調子。その裏に「お前は俺に勝てるのか?」という意図が込められているのを感じる。
「まあまあさ」
 油断なく、余裕をもって太陽は答える。やすやすと挑発に乗ってしまうのは良い手ではない。
 しかし、太陽のむねのうちにわずかな疑念が巻き起こった。このまま曖昧に別れたとして、それはそれで「弱さ」を抱いてしまうのではないか。その弱さを抱いたままで、これからますます強くなるであろう北風に打ち勝つことができるだろうか。ならば
――今ここで打ち倒すしかないか
「北風さんも調子がよいそうじゃないか」
「それなり、ですがね」
 太陽の陽気な声に隠された意図を、もちろん北風は読み取っている。その顔に獰猛な笑みが浮かぶ。
「良ければ、手合わせをお願いできませんかね」
 北風が斬りこむ。
「あんまし腕っぷしで売ってるわけじゃないんだが」
「いやいや太陽さんと言えば天気屋たちのドンだ。どうか、胸を貸すと思ってさあ」
 太陽が一歩引いて見せれば、北風は一歩踏み込む。二人の間に剣呑な空気が沸き起こる。太陽は「舐められているな」と思った。やはり、捨て置けぬ。ふむ、と一思案する。
 太陽の目に山道を行く男の姿が映ったのはその時であった。

「あれなど、ちょうどいいのではないかな?」
「あの男、ですか?」
 太陽が男を指して言うと、北風も男を見つけて答えた。
「あの男で一つ技比べといこうではないか」
「なるほど」
 北風はつぶやくと男を見下ろした。一吹き、息を吹きかければたやすく飛んでしまいそうな弱々しい男であった。
「あの男を倒せばよいのですか?」
「まさか」
 少し驚いたように笑って、太陽は答えた。
「そのような哀れなことをしてはいけない。生き物は弱く儚いものなのだから」
 ではどうするのか、疑問を北風が口にするよりも先に、太陽は言葉を続けた。
「あの男の纏っているマント、北風さんは脱がすことができるかい?」
「そんなこと」
 太陽の提案に北風は訝し気に答えた。あまりにたやすいことのように思えた。
 何かを吹き飛ばすこと、それは北風がおおいに得意とするところだった。先だっても、豚の兄弟たちの立て籠もるレンガの家を吹き飛ばしてきたところだ。そのレンガの重みに比べれば、男の纏うマントなどないも同然である。
「かんたんなことですね。本当にそれで力比べをするんでいいんですね」
「大した自信だな」
 あるいはこの時、あまりに自分に有利すぎる条件を怪しく思ってさえいれば、北風は太陽の目論見に気づけていたのかもしれない。
「まあ、太陽さんが良いならば良いのです」
 しかし、実際には北風の自信が怪しむ心を覆い隠していた。慢心とは言えまい。間違いなく自分が勝つことができる勝負の何を疑えばよいというのだろう。
「では、私から行かせてもらいますよ」
 北風は男をしっかりと見据えると大きく息を吸い込んだ。

 男は一瞬、雲に切れ間ができたのを見た。
 そして次の瞬間、強い風が男の全身を包んだ。
 暴風――というべき風だった。冷たく、強く、襲い掛かるような風。立っているのさえ困難で、男は荷物を地面に置くとその陰にうずくまり、ぎゅっとマントを体に巻き付けた。
 砂が舞い、小石が舞い、音を立てて男に降りかかる。
  男にできるのはただうずくまり、突然に降ってわいたこの地獄の業風が一瞬でも早く止むのを祈ることだけだった。 

 ごう、と一息を吹いて、北風は一度吹き付ける息を止めた。
「どうしたんだい? 北風さん。あきらめたのかい?」
「いや」
 太陽の軽口に曖昧に答えて北風は息を整えた。存外に粘りやがる、その思いを表には出さない。
――案外、容易な勝負ではないかもしれんぞ。
 北風にとって男を吹き飛ばすことはたやすいことだ。しかし、マントだけを吹き飛ばすというのは難しかった。
 なんの、もうひと踏ん張りと、北風はびゅうびゅうと風を男に吹き付ける。今度は力任せばかりではない。不規則に風向きや強さを変え、男の力を弱めようとする。けれども、男はけっしてマントを手放そうとしない。
 力加減の外にもう一つ北風が計算から外していたことがある。それは、定命の者の生への執着だった。
 男は本能的に自分がマントを手放してしまえば、命を落としかねないことを悟っていた。寒さ、石礫、いずれも男の命を軽く奪ってしまうだろう。その恐怖が男の身を固くこわばらせる。
 北風が強く風を吹き付ければ吹き付けるほど、男はよりいっそうマントをきつく体に巻き付けるのだった。

「そのくらいでよいのではないかい?」
 太陽が声をかけた。もうすっかり北風の息は上がっていた。
「そろそろ私の番だろう」
「あんたなら、脱がせられると言うんですか?」
「まあ、試してみるさ」
 言葉こそ確かな言葉ではないけれども、その声には確固たる自信が満ち溢れていた。
 北風は心のうちに疑問を抱いた。
――なるほど、確かに自分は男のマントをはぎ取れなかった。しかし、この太陽の自信はなんだろう?
――いかに太陽の力が強くとも、こと、物を動かす力に関して自分に勝ることはないだろう。
――それでは太陽は何を思ってこの勝負を持ちかけたのだ?
 北風の頭の中に疑念の嵐が吹き荒れる。混乱に打ちのめされる北風をよそ目に、太陽は地上にうずくまる男に優しい目を向けた。

 地面に伏せていた男はいつの間にか背中に感じていた風が止んでいることに気が付いた。あれほどの暴風がもう去るということがあるだろうか?
 恐る恐る顔をあげる。
 風はない。
 あたりを見渡す顔に暖かなものが当たるのを感じた。しばらく呆けてからその暖かなものが陽光であることに気がついた。
 最初、男は自分が幻の中にいるのかと思った。かつて立ちよった村で耳にした、一つの噂が男の脳裏に蘇る。
  それは寒い山で死んでいた旅人の話だった。
 奇妙なことにその旅人は半ば凍りかけるほどに凍えていたというのに、身に纏っていた服を投げ捨てていたという。あまりの寒さのためにかえって暑さを感じたのだろう、と旅人を葬った村長は言った。自分も、その奇妙な旅人と同じ狂気を辿ろうとしているのだろうか。
 空を見上げる。
 幻ではない。先ほどまでの荒れ狂う風はすっかり消え去り、晴れ渡った青空が広がっている。キツネにつままれた気持で男は立ち尽くす。
 空から降り注ぐ柔らかな光に照らされるうちに、冷たい風で骨の芯まで凍えていた全身が溶けていくのを感じる。全身の力が抜けて地面にへたり込む。
 しばらく呆然とそうしていると、指先がチリチリと痺れるのを感じた。寒さに淀んでいた血液が流れ始めたのだ。血流がいきわたるにつれ、だんだんと全身が暖かくなってくる。暖かさは次第にその範囲を広げ、増していく。
 もはや暖かさの段階を超えつつある。男は額に心地の良い汗が浮かぶのを感じた。
――なぜ、自分はマントなど握りしめているのだろう?
 男の疲れ果てた頭に疑問が浮かぶ。考える間にも体中に汗がどんどん湧いてくる。
――もうこんなに暑いのだ。脱いでしまおう。
 力をこめて握りしめていたので、もすっかりこわばってしまった手を解き、もどかしい思いでマントを脱ぎすてる。暖かな陽光が全身をつつんだ。
 男は晴れ渡った空を見上げて思った。
――ああ、もう春が来るのだ。

「どうやら、勝ったようだね」
 太陽はわざとらしく安堵の息をつきながら言った。
「どうも、そのようですね」
 北風は苦々しい表情で答える。自分の失策を悔やみながら。
 北風の敗因は、この勝負を単純な力比べだと思い込んでしまったことであった。
 もちろん太陽はこの結末を予測したうえでこの勝負挑んできたのだ。条件を飲んでしまった時点で、北風が敗北することは決まりきっていた。
 北風自身の自信と、力のある今のうちに太陽に勝って優位に立っておきたいという焦りが、太陽の目論見を見えなくしてしまっていたのだ。
「まあ、今回は、負けたということにしておきましょう」
「ほう?」
 面白そうに太陽が相槌を打った。北風は太陽の顔をじっと見つめて言った。
「次はまた別の勝負で。その時は負けませんから」
「ははは、それは恐ろしいな」
  太陽は笑って答える。
「楽しみにしているよ」
「ええ、それでは」
  北風は一つお辞儀をしてから、ぴゅん駆け出した。太陽がお辞儀を返し、顔を上げた時にはもう北風の姿は見えなくなっていた。
「それは、楽しみだな」
 太陽は独り言ちる。その顔には笑みが浮かんでいた。いつもの、駆け引きのための笑みではなく、心の内から湧き上がってきた笑顔だ。
 一度自分に負けてから、再戦を望む者など随分と久しぶりだった。
 太陽は微笑んだまま、地上に目を下ろした。
 マントを脱いだ男が軽い足取りで坂を登っているのが見えた。
 峠の向こうには、大きな町が広がっている。男はもう頂上にほど近いところまで登ってきている。
 まもなく男の目にも、陽光に煌めく町が見えてくるだろう。

【おしまい】


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