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創作と具現化との関係。松本清張『砂の器』の脚本と尊重されたい著作者人格権/建築家 石川雅英 

吹雪の海岸、菜の花咲く田園。美しくも厳しい日本の風景の中を遍路する乞食の父子が、行く先々で石を投げられ追い払われる。セリフはなく、交響曲が10分以上続く——。

映画『砂の器』のクライマックスだ。脚本は橋本 忍、原作は松本清張。この有名な場面、原作にはほとんどないことが知られている。原作のわずかなヒントから膨らませ再構成し、映像と音楽を与えることによって、原作以上の作品にしている。映像化にいつも渋い顔をしていた松本清張も、この映画脚本には満足していたという。その後、何度も映像化されたが、小説からではなくこの映画脚本がベースになっている。

映像や音楽は、時に文字の表現を凌駕する。砂の器が時代を越えて、何度もさまざまな形で再演されているのは、この映画脚本の出色のでき映えがあるからに他ならない。松本清張の世界、ごく普通の市井の人が恩人である人を殺すという、誰にもあり得る恐怖と悲しみ、原作者への深いリスペクトを感じる。脚本が原作を超えた稀有な例だ。

しかし、現実の場合、わずかな原作使用料で勝手に変えられ、別の作品になってしまっても、原作者が泣き寝入りすることが多い。経済的な利益である「著作権」と精神的な利益である「著作者人格権」(売買も譲渡もできない)は、別物であるにもかかわらず同一で語られてしまう。最近、ある作品がドラマ化するにあたり、別作品に変えられていくのに端を発し、結果、原作者が自殺にまで追い込まれてしまう悲しい事件があった。

アメリカのように、膨大な契約書で縛ればよいのではという人もいる。確かにそうかもしれない。そうしたほうがよいとは思う。ただ、契約社会は日本において浸透している過程だ。契約書の法律的文面は巧みに作成され、門外漢にはその罠を見抜けないことも多い。

アメリカや東南アジアのファンドとも仕事をしてきた私が一番感じるのは、彼らの創作に対する深いリスペクトだ。そこが根底になっている。建築は、資金、街、期間、社会的影響、どれも大きい。それ故に、多くの工程を経て具現化していくので、オリジナリティを保持するという観点からは難しい分野だ。

しかしながら、創作者をリスペクトしていこうという姿勢には、日本と明確な違いを感じる。その著作者人格権に対するフィーは、設計者が期待するよりも、一般の方が想像されているよりもはるかに少ない。しかし、現在の国土交通省の基準では、デザインに値段がつけられないからという理由で、そもそも明示すらされていない。フィーではなく、その姿勢が問題なのだ。

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