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Episode 790 「できない」が固定されるのです。
あずさ(@41azusayumi)さんとのスペース振り返り記事は、実に今回で第4話…本当に今回のスペースは気付きの多い、実りあるものでした。
いよいよ振り返り記事もクライマックス…でしょうかね。
— あずさ (@41azusayumi) October 14, 2024
ここで前回の記事のおさらいをしておくと、AS"D"の (能力的という意味ではなくではなく、社会的な意味においての) 優位性とは、AS"D"当事者が置かれている環境が、そのひとの能力を発揮するに適していた…という「ラッキー」の上に成り立つという、身も蓋もないハナシだったのですよ。
その優位性は「Allistic(非自閉の民) が主体の社会」で認められるモノなのですが、非定型な感覚が作り出す「非定型文化」の持ち主である Autistic(自閉の民) であるが故に、Autistic の私 (≒個人) の優位性が示せない部分に関しては、社会の主流である Allistic の感覚に寄り添わないと、生活で孤立することが多いワケです。
この感覚については、あくまでも「私の経験」という範囲のハナシなのですけれど。
その、持ち合わせていない「Allistic の感覚」をカタチだけ真似る方法が「ライフハック」と呼ばれる生活術なのだ…というのが私の解釈。
そのライフハックが機能するために必要なものが、ライフハックが機能できる環境なのだ…というワケです。
さてさて…。
スペースでの対話は後半、弱い立場としてのAS"D"…つまり「『障害者としての Autistic』という意識がもたらすもの」へと進んでいきます。
前回の記事でお話しした通り、私の Autism(自閉性) の気付きのトリガーは、転勤に伴う環境の変化でした。
「環境の変化≒文化の違い」である場合、今まで住んでいた土地でのライフハックが、新天地で機能しないことで発生するコミュニケーション齟齬を生み出す可能性があるワケですよ。
「できる」と聞いていたひとが「期待していたほどではなかった」時の落胆は、本人の真の実力よりもかなり低く見積もられるように思います。
落胆が負の評価を過剰に引き出す…は、十分にあり得るハナシだということです。
Allistic 的定型文化人では「ふつうにできる」ことが、Autistic 的な非定型文化人には難しいことが存在する、それがAllistic 主体の社会生活で不具合となってしまう部分がASDの"D"の部分 (症/障害≒Disorder) なワケですよ。
これが「期待していたほどではなかった」を決定づける理由として使われてしまうことで、「できない/たいしたことない」という評価を固定させてしまう可能性はないか…と。
即ち、期待値が高い分だけハードルは上がるワケです。
そして、期待した能力で全てができると期待されるワケです。
私はそれを「みなしできる」と呼んでいるのですが、期待される能力は限定されることなく、「あれができるならこれもできる」こともまた期待されてしまうのですよ。
ところが Autistic は「発達凸凹」と評されるほど、できることとできないことの能力差が大きいことが多いワケです。
WAISのような知能検査は、平均値を100として、そこからのバラツキを数値で表すワケね。
当然、社会の主体たる Allistic の平均値が、それぞれの項目の100付近に集中するワケですから、Autistic の「発達凸凹」とは、この標準的 Allistic からの「項目ごとにブレの大きさ」を示している…とも言えるのだと思います。
裏を返せば、社会の主体たる Autistic は、ひとつの事象から「その他の能力の推測」が可能なことが多い…ということ。
「期待していたほどではなかった」のは、本来期待されていたことではなく、その他のライフハックでカバーしていた苦手部分が、環境変化などで機能しなくなったから、想定外の「できない」が見えてしまったから…とか。
そうなると、できないことからその他の能力を推測する「みなしできない」という現象が生まれるワケ。
AS"D"という「障害」があるとした時、AS"D"者は「障害者」なのですよね。
障害者という概念の考え方はイロイロな種類があるのですが、日本社会で言うところの障害者とは、不具合のある人 (≒医療モデル) という認識が強く働くことが多いのが現状です。
つまり、身体的であれ、知能的であれ、精神的であれ、社会標準から不具合と認識するほどの逸脱が認められる人…という認識であり、その「障害」という不具合のイメージからその他の能力も一律で推測されるとすれば、障害があるのは特定の範囲であるにもかかわらず、全てにおいて障害者扱いを受ける可能性が否定できない…ということです。
対談の冒頭に戻ります。
今回のテーマは…
Autistic とそうでない人たちの関係。
加害/被害/対等、何がどうやって決まるのか、変更の可能性はあるのか
…というモノでした。
Autistic がパワハラ/モラハラの被害者になるとは、相手の関係性でパワーバランスの劣位に置かれ、「できない」を指摘されて、その評価が固定してしまうことで発生する…ではないか?
それは私のように、環境などの変化によってライフハックがキャンセルされ、できない部分が露出したところから「みなしできない」で評価が固定してしまうようなパタンもあれば、あずささんがスペースでお話しされていたように、障害の診断が付いたことにより、「障害者」という評価が固定してしまったようなパタンもあるワケです。
何れにしても、Autistic x Allistic の関係性は、定型優位社会の「定型文化」の範疇としての出来事ではなく、「異文化交流」であると認識しておかないと、パワーバランス優位者によるハラスメントが起きやすいのは、恐らく間違いないのでしょう。
4回に亘ってスペースの振り返りをしてきましたが、一旦これを結論としようと思います。
あずささん、有意義な時間をありがとうございました。
また是非、お話しする機会をいただければ幸いです。
あずささんとの、今回の対談スペースを扱った過去記事はこちらから。
第1話。
パワーバランスの優劣が作り出す支配/被支配の関係を、Autism資質が増幅させる可能性について。
第2話。
受動ライフハック型AS"D"者がパワーバランス優位に立った時に、「パワハラ/モラハラ」事象に至る理由を考察する。
第3話は、本文中のリンク「ハックが無効で苦しみます。」からどうぞ。