Episode 716 "D" の削除を考えます。
私が村中直人(@naoto_muranaka)先生が主催する『村中直人と自閉文化を語る会』に参加するようになって、1年が過ぎようとしています。
ここに参加することで感じるのは、「自閉」と「自閉症」の差…でしょうか。
日本語が指す「自閉」は、「自閉(スペクラム)症」とイコールで繋がっていて、それ故に「障害」のイメージが強いのです。
確かにね、「自閉(スペクラム)」が作り出す感覚は定型文化を基準にしたイレギュラーにあたる…と捉えれば、「自閉(スペクラム)」は Disorder なのでしょうけど。
誤解を恐れずに言えば、定型文化なるものは「世の標準は我にあり」の視点にあるワケね。
だからこそ、「自閉」は「自閉症という障害」として扱われ、それを定型側がサポートする形で「障害認定」する「医療モデル」が今現在の主流ということになるのでしょう。
note記事「それらは違う話です。」で、「医療モデル」の施策はアンバーな思想であると、私は指摘しました。
それ故に、日本語が指す「自閉」は、「自閉(スペクラム)症」とイコールで繋がっていて、それ故に「障害」のイメージが強いワケね。
そういう意味で、Autism Spectrum の部分は、「自閉(スペクラム)」のピュアな特性/特徴のみを扱うことになる…。
前回の記事で、私は「私の自閉由来の部分」をもう少し認めても良いのではないか…と書きました。
「医療モデル」的な発想は、定型文化からはみ出した部分が「障害」として扱われ、だから「はみ出すこと」がないように教育とフォローがされる方向に考えられがち…なのでしょう。
だから、世の中の中心である定型社会とは異質な部分を押し隠そうとしてしまうのだと思うのです。
でも、定型社会とは異質な部分が、全てにおいて「世の中の障害」になるのか…と問えば、そうではないことも多々あるハズ。
前回の記事で私は、コミュニケーションのキッカケに「モノ」を使う点で、その「モノ」が自己完結と結びつかなければ、十分にコミュニケーションを取るためのアイテムとして機能できる点に希望を感じたのです。
有能な営業マンが、その独自の営業スタイルで成果を上げていく…というのは小説やドラマの中だけのハナシではなく実際にあるハナシでして、そのスタイルを真似ようと試みても上手くいかないなどということは普通に起こるのですよ。
それは、形だけを真似るASD的な「擬態」が、何れ破綻することによく似ています。
「モノ」をアンカーポイントにすることが私にできるスタイルなのならば、それを「自閉的だから」と封印するのではなくて、上手くいくように磨きを掛けるのは、アリなのだよな…と。
自閉文化とは、自閉であるわたしの行動を認めて、付き合うこと。
Autistic な私に、アイデンティティを。
「グリーン組織」や「(ニューロ)ダイバーシティ」を考えるに当たり、Autism Spectrum Disorder の "D" は、そろそろ削除を考える時期にあるのかもしれません。
自閉文化を考えるに当たり、「定型×非定型」の相対的な関係性をどのように理解するのか…という視点が必要になると思います。
その点を「地動説×天動説」に例えた関連記事を貼っておきます。
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