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Episode 350 努力を惜しまぬ良い子です。

何度も同じことを言って恐縮なのですが、このブログに書かれていることは一般論ではありません。
私の経験・体験に基づく個人的な感じ方の話であって、全てのASD者がこれに当てはまるワケではありません。
むしろ、私の感覚が私独自のことだったということだってあり得るワケです。
だって、私の幼かったころの自宅の環境が「聞く」に適していなかったって、全員に当てはまるとは思えませんから。

私が幼いころに母親の仕事の都合で「公園デビュー」できなかったこと、遊び場にしていた仕立て台の下は、相当うるさい環境だったということ。
結果的に同年代の子どもと交わることが無く、常に勝ち目のない目上の行動しか見る機会が無かったこと。
その環境には、対等という力関係は存在しなかったということ。

ラジオから流れる言葉はいつも意味不明で一方的だったのです。
私のような幼児を対象にする番組ではありませんでしたからね。
結果的に私と関係のない音は意図的に聞かなくなった…そう考えると納得できるのです。

親が子どもに対して、姉が弟に対して、対等な会話を常時するワケがないのです。
親は子どもを社会性を持たせようと躾けるのです。
そこには保護者と被保護者という明確な線引きがあるワケです。
姉の方はもっと残酷です。
私を躾ける義務がありませんから、私が出来ないことを明確に出来ないと指摘するし、出来るようにする努力を払う必要もありません。

私は育てやすい「聞き分けの良い子」でした。
当然です、指示された言語に対しては忠実で、目上である姉に憧れ、姉が出来ることは私も出来るようになりたいと努力する
発達のスピードとしては速かったのだと思います。

但し、言葉をコミュニケーションツールとして活用する素地が、自宅にはありませんでした。
次の言葉の問題が現れるのは、私が小学生になってからです。

旧ブログ アーカイブ 2019/8/30

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