Episode 791 「ない」が障害を作るのです。
ツキイチ不定期連載企画の「『葬送のフリーレン』の Autistic(自閉の民) 的深読み」も、今回で二桁10回目です。
9月末にTVアニメ第2期の制作が発表されましたが、今のところ放送時期は未定…アニメ化されていない部分の考察は、閲覧数の伸び悩みがありましてね。
別に閲覧数に拘っているワケではないのですが、アニメ化などというメディアミックスによる社会的認知度の向上は、やはり「あるなぁ…」とか思うのです。
さてさて、私の「フリーレン考察」は、原作単行本一巻ごとに気になった項目をピックアップするスタイルでして、その10回目である今回は、当然ですが第10巻をピックアップすることになります。
例によって、第10巻のザックリした内容ですが…。
共に「一級魔法使い選抜試験」に試験に挑んだことでフリーレンに顔を合わせることとなった、宮廷魔法使いであり、試験に合格して一級魔法使いになった老練の魔法使いデンケンと、その郷里の貴族・グリュック家の統治する城塞都市ヴァイゼを「黄金」に変えてしまった七崩賢の魔族である「黄金郷のマハト」との過去、そして迫りつつある対決の時…という感じかな。
毎回同じことを書くのですが、私はこのnote記事で「物語のネタバレ」を望んでいません。
物語に興味のある方は、是非とも原作マンガを手に取って欲しいと思っています…さて。
今回のトピックは、こちら。
実は、この言葉自体は、単行本の第9巻の最後の方に出て来ます。
そして、この言葉は、マハトが魔族ではない人間に興味と関心を持ち、人間のことを理解したいと思うキッカケになるのです。
第10巻で描かれるお話は、このマハトの言葉によって導かれるワケですね。
マハトは、神父の最期の言葉により、魔族が持ち合わせていない感情があることを知り、それを知りたい…と思ったワケです。
裏を返せば、マハトが持ち合わせていない“悪意”と言う感情は、(例外を除き) 全人類が持ち合わせているモノ…ということです。
ココが、とても大切なポイントなのだと、私は思うのです。
分かっている側は「分かることが常識」だから、常識の範疇として“悪意”を語るのです。
でも、その「常識」と思っていた“悪意”の理解が、「常識ではない」としたら?
人間には“悪意”と、その裏側にある“善意”というモノがあり、それを分かった上で行動することが「常識」なのですよ。
基本的に“善意”に裏打ちされた「善良さ」が人類の行動のスタンダードになるワケで、「善良さ」がベースになるからこそ、野蛮な行動は“悪意”と結び付けられて糾弾の対象となる…と言うことです。
ただね、コレは人間の常識にすぎないのですよ。
マハトの言葉から読み取れることは、魔族には“悪意”と、それの対になる“善意”という思考が存在しない…ということです。
存在しなければ、人間がそれを「悪意に満ちた蛮行」と、魔族の行為を断じてみたところで、魔族の心に人間の言葉が「人間が思った通りに」届くワケはないのですよ。
フリーレンの物語の中での魔族は、「人を欺く道具として言葉を使う」とされているワケです。
ここに来て、果たしてそれは本当なのかという疑問が出て来ました。
つまり、魔族は「人間とは違う感覚」を持ちながら、「人間と同じ言葉」を使う種族だと言うことです。
持ち合わせている感覚が違うから、言葉の内容が同じにならない…としたら、人間の方が「ないワケはない」と思い込み、「あるハズ」の感覚として自らの理解を普遍的として変えないから、「ない側」の魔族の感覚を理解できないということになる…と。
Autism(自閉性) の本質は、Allistic(非自衛の民) が持ち合わせる他者視点という「自己客観視するアロセントリックな要素」が不足している点にあるワケです。
アロセントリックな要素が不足しているが故に、「自己主観的なエゴセントリックな視点」が性格形成に強く影響するワケね。
その足りないモノを学習して獲得できたとしても、Allistic のようにネイティブにナチュラルに「自己客観視するアロセントリックな要素」を使いこなした生活ができるのか…と問えば、なかなか難しいでしょうね。
転んで痛い思いをしたときに、咄嗟に出る悲鳴は「母国語」…。
私は決して「魔族≒AS"D"」ということを語っているワケではありません。
ただ、「障害」…特に目に見えない精神的/言語的な部分の「障害」について考えた時、私たちの常識が通じない部分を「障害」と呼ぶように思うのです。
人間から見たエルフが Autistic に見えた理由は、エルフの半永久的な寿命の長さゆえに人の感覚が通じない部分があったから…多分ね。
同じように、エルフやドワーフを含む人間から見た魔族には、“悪意”と、それの対になる“善意”という思考が存在しないから、「人間の言葉が通じない蛮族」とされるワケです。
「ある」という感覚が作る普遍性の存在が、「ない」という障害を作るのでしょう。
相手を知るということは、自分を知るということ…とした時に、マハトの行動は現代社会にも通じる、とても意義深いことなのだろう…と、私は思うのです。
私の「『葬送のフリーレン』の Autistic 的深読み」は、毎月一回の不定期連載企画なので、過去連載分をマガジンカットしてあります。
興味のある方はこちらからどうぞ。