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Episode 778 「ない」の受入れが大切です。

少し前に「ないものをないままに扱うことの難しさ」を記事にしたことがあるのですよ。

これはアニメーション作品で描かれる宇宙船の中には、存在しないハズの重力が存在するし、重力があるように描かれることに、多くの人は違和感を感じることがない…ということを題材にして、「ない」を想像をすることの難しさをお話ししたのです。
もしかしたら「ある」を想像することよりも、「ない」を想像することの方が難しいのかもしれません。

私のような Autistic(自閉の民) は、「コミュニケーションの障害」とか「想像力の欠如」などを言われることが多く、それは社会を構成する多数派である Allistic(非自閉の民) から見て、想定できる範囲から外れてしまうことがそのような指摘の主な原因なのだと思うのです。
その指摘される「異質の部分」を障害(Disorder) と呼ぶ…ということです。

私が最近思うのは、障害(Disorder) と呼ぶ多くの部分は「ない」と表現されるのだよね…ということです。
私のような Autistic(自閉の民) は、「コミュニケーションの障害」とか「想像力の欠如」などを言われることが多い…は、その通りなのだけど。
つまりこれは「コミュニケーション能力がない(弱い) 」とか「想像するチカラがない(弱い) 」とか、そういう意味ですよね。
そうして私は、自分にない(弱い) 能力に悩むワケです。

一方で、ADH"D"(注意欠如多動症) の「注意欠如」は、既に欠如と言っているので割愛するにして、他方で「多動」は動きが標準と比較して多いことを指しているワケですが、言葉の真意としては「落ち着きが『ない』」ということを表現しているワケです。
そうしてADH"D"の方々は、私と同じように自分にない(弱い) 能力に悩むワケです。

つまり、社会を構成する多数派である Nurotypical(定型発達者) が言うところの「障害(Disorder) 」とは、「本来なら身に付く能力が身に付いていない」、つまり「あるハズの能力がない」…ということを指す言葉なのだな…と。

ただね、コレは恐らく… Nurotypical(定型発達者) に限らず、私たち Atypical(非定型発達者) も同じ感覚を持っているのだろうと感じるのですよ。
それは冒頭で話題に出した「宇宙船の中の重力」のハナシで説明できます。
私は Autistic ですが、Allistic のみなさんと同じように、宇宙船の中にあるハズのない重力が描かれることに、何の違和感を感じることがなかった…という点で「同類」なのだと言うこと、コレに異を唱える方はいないでしょう。

先日、面白いスペースを拝聴しました。
小鳥遊(@nasiken)さんと村中直人(@naoto_muranaka)先生の対談スペースの中で語られる、「Autistic の社会的情報感度の低さ」のハナシ(スペース録音頭出し 0:28:00付近から)の中で、村中先生は Autistic を「人間を特別扱いしない脳の持ち主」と話します。
これは即ち、Allistic は「特別に人間に注目してしまう脳の持ち主」であるということでして、社会の主体である Allistic が「人間に注目すること」を標準としていることで、人間への注目度が相対的に低い Autistic は「人に興味がない」という目に見える結果で評価されてしまう…という説明に導かれるのです。

ここで私が思ったのは、これが Autistic が「コミュニケーションの障害」とか「想像力の欠如」などを言われることが多い理由になるのであり、Allistic が持っている「特別に人間に注目してしまう脳」を持っていないことが問題になるのだな…ということです。
もし仮に、Autistic が社会の主体であるのならば、「人間を特別扱いしない脳」の持ち主が社会性を作ることになるワケで、「特別に人間に注目してしまう脳の持ち主」である Allistic は、Autistic の想像を超える「人への過剰な反応」をしてしまう部分を異質と指摘され、障害(Disorder) と呼ばれることになるのだろうと思うのですよ。

その Allistic の特性を仮に「障害」と表現する時に、「過剰に(特別に)人間に注目してしまう」と表現するだろうか…と思ったのですよ。
恐らくですよ、Autistic の「人でもモノでも、全ての事象を平等に扱う」ことが社会基準となるのなら、「Allistic は平等性の欠如の障害である」とするのではないかな…と。
つまりね、「平等性が欠如した結果として、人への興味が過剰に示される」のが Allistic である…という認識になるのではないかなぁ…と。

冒頭の宇宙船の中の重力のハナシに戻り、「あるものがない」は、想像するのがとても難しいのだと思うのです。
だから障害などの「異質」を表現するのに、「あるハズのモノがない」がハマりやすいのでしょう。
そして「あるのがふつう」だから、獲得を求めることが障害の「克服」になり、「ある」の状態に近づけることが「支援」になるワケね。

そう考えた時に、「(ニューロ)ダイバーシティ≒(脳の)多様性」には、「ないをないまま受け止める感覚」が必要になるのだろう…と。

人はあるものを駆使して生きて行こうとするのだ…とした時に、積み上げてきたものは組み込みこまれて馴染んでしまっているから、そこからその一部分を取り外して考えるのは簡単なことではないのだと思います。
ただ、「ある」をふつうと思わずに、「ない」を異常と思わずに、そのまま受け取ることができないと、ダイバーシティは前に向かわないのでしょう。

「ない」を「おかしい」にせずに、「そうなのね」と受け止める理解が、多様性の容認には必須なのだ…と、そんなことを思ったのです。

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