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Episode 780 太陽を挟んだ対極です。
「ハッタツの敵はハッタツ」というのは、以前からよく言われることなのですよ。
でも…ただでさえ社会的マイノリティであるAS"D"やADH"D"なのに、マイノリティの中でも意見がまとまらないのは何でなのでしょうね。
先日、私は「受動と呼ばれるAS"D"の型は、Autism(自閉) の本質ではなく、そういうライフハックを用いた結果である」と実感したハナシをnote記事にしたのでした。
Autistic(自閉の民) で言うところの受動型とは、「どうやって社会をサバイブするか」という命題をクリアするために、自らの意見を封印してあなたの意見に迎合するライフハックを多用するタイプの人を指す…と言うのが私の認識です。
では「受動というライフハックを覚える前の姿(本質)は?」という問いが来たのなら、「それがいわゆる積極奇異型だ」…と、私は答えるでしょう。
イロイロな意見があるとは思うのですが、私の認識の中では、Autistic/Allistic(非自閉の民) を問わず、現代人の「原型」は Autistic の積極奇異型なのですよ。
極端に言えば、周囲から見た自分の姿を想像して、自分の言動を調整するのが Allistic です。
この機能は成長の過程で習得するモノなのだと私は思っています。
例えば子どものケンカは、基本的に自分の欲求通そうとするもの同士の諍いであり、だから調整の仕方を覚えていくにつれて、ケンカの数も減っていくワケです。
「ガキじゃないんだから…」というのは、お互いに融通し合えない状況を見て、周囲が呆れて「しょうもない」とため息を吐く状況を指していることが多いのでしょう。
裏を返せば、自分の言動をコントロールする「他者視点」は、成長の過程で身に付けるものだと言うことです。
ところが…脳の構造上の問題などにより、「他者視点」を上手く獲得できない人が少ないながらも存在するワケですね。
その全てをまとめて Autistic と言うのはちょっと乱暴な気もしますが、大枠として Autistic とは、そういう人たちのグループなのですよね。
つまり、Allistic が成長の過程で身に付ける「他者視点」を持ち合わせていない Autistic のうち、「他者視点」の代替の役目を果たす何らかのライフハックを用いない一群が「積極奇異型」なのだ…ということです。
ライフハックというのは誰かに教わるものではなく、自らの経験の中で見つけた上手くいく方法なのだと、私は思っています。
だから、世間に出回るライフハックの知識は、それぞれの経験者が上手くいく方法を言語化したもので、その言語化されたモノをライフハックと呼ぶ…ワケではないのだというのが私の意見です。
そして、そのライフハックは、Autistic の自認と、直接関係しないだろう…とも思うのです。
“能動的に、意識的に選び取ってるかどうかなのかなあ、というのが、いまのところの結論です。”
— ɦσ+(ɦσƭαร) (@HOTAS10001) September 7, 2024
ひとつ付け加えるとすれば、それはAS"D"を自覚しているか否かには、結局は関係がないのだろうと私は思います。
「擬態」と演技との関係について。|あずさ @41azusayumi #note https://t.co/uqWwe6C0Hw
スぺースなどでお世話になっている、あずさ(@41azusayumi)さんの新着note記事「『擬態』と演技との関係について。」では…
能動的に、意識的に選び取ってるかどうかなのかなあ、というのが、いまのところの結論です。自分が仕事以外で「擬態」しているかどうかは、正直いって、よくわかりません。
…と結んでいます。
この結論から私は、あずささんのnote記事で示される「AS"D"的な擬態」とは、単純に生きるためのライフハックであると確信するのです。
それは、「擬態」以外に「受動」も 、単純に生きるためのライフハックであって、そのライフハックがハマる背景には、同じように Autism(自閉) 資質が見て取れるということだと考えたのです。
Allisticが主流の社会でAllisticが有利は当然で、それに合わせた行動を傍流であるAutisticにも求める…も社会的な営みとして当然なのだろうと思うのです。
— ɦσ+(ɦσƭαร) (@HOTAS10001) August 5, 2024
ただ、そのAllisticに合わせるAutisticは、どのように合わせるのかということを我流で作り上げる必要があってね、そこが問題なワケです。 https://t.co/hh4wQ5VGOz
ただね、そのライフハックというものの本質は、「個人が発見した上手くいく方法」なのね。
さらに言えば、そのライフハックとは、社会標準の「標準が獲得できない」が故に、編み出されるブラックボックスなのよ…悪意のある表現で言えば、「理由は良く分からないけれど、こうやるとイイ感じ。」
その「『個人』で発見した上手くいく方法」で社会をサバイブしてきた「個人」から、ふつうのやり方とか、自分の方法以外のライフハックを用いる人が考えるやり方をどう見るのか…と考えます。
ふつうのやり方は…まぁ「ふつう」という位ですからね、大体想像ができるかもしれません。
私自身が指摘される「他者視点がない」に抵触しないために求められる標準のハナシです。
一方で「自分の方法以外のライフハック」を用いたやり方は、ちょっと厄介です。
一般社会の標準から指摘されたことをカバーするために用いたやり方 (≒ライフハック) は、社会標準から見て「共に近からず遠からず」だとしても、それぞれのライフハックは社会標準を挟んで両極に位置する可能性は、否定できません。
これはひとつの思考実験でしかないのですが、マジョリティという社会標準を構成する一群の圏外にあるマイノリティが、社会適応を目指すために使うライフハックは、「どこから」という位置関係を増幅させてしまうのだと思うのですよ。
ハッタツの敵はハッタツである…ということは、往々にして起こるのですよね。
— ɦσ+(ɦσƭαร) (@HOTAS10001) August 19, 2024
特に「擬態」傾向の強い「潜伏(≒良い子)型AS"D"」は、ある意味で洗脳された存在…自分の本心で定型社会に迎合しているのではなく、生きる術として迎合しているから…。
『アドルフに告ぐ』の、アドルフ・カウフマン…。 https://t.co/ruiPOJJl3S
私のライフハックは私が生きる知恵だからね、私以外のやり方は知らないのですよ。
その目的は社会標準へのコネクトであって、同じように個人のライフハックを使うあなたとのコネクトを目指しているワケではない…残念ながら。
社会標準から見て Autistic はアウトサイダーだとして。
そのアウトサイダーにはライフハックを使用しない一群と、
ライフハックを多用する一群がいて、
ライフハックを多用する一群にも、
どんなライフハックを使うのか…という個性がある。
そのライフハックがお互いに理解不能なことは、ないか?
このあたりにね、「ハッタツの敵はハッタツ」の根本があるように思うのですよ。
そして、これを知った上で「さぁどうするか」なのですが…。