Episode 599 当事者の視点が重要です。
『橋のない川』は作家・住井すゑが書いた、被差別部落の差別に関する理不尽をメインテーマとした長編小説です。
私が中高生の頃は、学校の人権教育・道徳教育のテーマとして「同和問題」が取り上げられるが多く、私が通った学校でも映画版の『橋のない川』が上映され、「人権とは何か…」と言う教育が行われていたのです…表面的にはね。
ただ、この学校で行われた「同和教育」が効果的な人権教育だったのか…と問われると、かなりの疑問が残るのです。
それはね、その「同和教育」が私の生活に直接関係していないからです。
そのことを身をもって感じるキッカケになったのは、私自身が「障害者」と診断され、「障害者手帳」を持つに至ったこと…だと思います。
もちろん、あの時に教育を受けたことが全くムダになっているとは思いませんよ。
身の回りで直接の関係がなかった人権問題が、同じ国のあちこちに存在するということを知る機会になったことは間違いありません。
ただ、直接関係しないことを理解することは、容易なことではないのですよ。
それどころか、身の回りから「問題」を遠ざけるような逆効果が発生する危険性もはらむ、非常にデリケートな部分でもあるのだと思うのです。
これは前回のnote記事で「またの機会で」お話しした部分と共通です。
活躍した芸能人が「発達障害者である」とカミングアウトすると、発達障害の実像とのギャップが発生するワケです。
発達障害の実体が正しく社会一般に伝わっていないのは問題だ…これが「キラキラ系発達障害者」のカミングアウトが嫌われる主な原因のひとつなのでしょう。
でも…この「キラキラ系カミングアウト」が正しく発達障害を伝えられないのは、発達障害の実像を正確に表現できていないからなのでしょうか。
私には、そうは思えないのですよ。
だって、カミングアウトした「あの人」は実際に発達障害の当事者なのでしょう?
そこでウソ吐く理由は全く見当たらない…今の世の中、経歴詐称の発覚は今後の活動・活躍に対しての致命傷になりかねないワケで。
ここで質問をひとつ。
「キラキラ系カミングアウト」をしたあの人のことを、発達障害を持つ私やあなたは、どのくらい知っているのですか?
発達障害を持つけれど活躍しているあの人が、どんな生活をしていて「私の特性」のどんな点で苦労しているのか、どのくらい知っているのですか?
それを聞かれた私は、恐らく答えに窮するでしょうねぇ。
このハナシのポイントは「自分に関係するのか」という一点のみです。
私の困りごとは、活躍中のあの人の困りごととイコールではないのですよ。
私の困りごとを、活躍中のあの人に被せることはできないのです。
活躍中のあの人の困りごとに直接関係するのは、日常生活でやり取りがある身の回りの方々に限定されます。
このハナシも「告白」のドキドキって話題で話しましたよね…あなたと一緒にいるメリットが、あなたと一緒にいられないデメリットがあるのかどうか、それが問題なのですよ。
「発達障害」という言葉が世間で言われるようになって、まだそれほど長い月日は経ちません。
1970年代に日本に入ってきたとされるその言葉が一般向けに広く認知されるようになったのは2000年代以降のハナシで、大きな刑事事件の容疑者が発達障害者だった等の報道により「発達障害」や「アスペルガー」などの「名称」にマイナスイメージが付いてしまったこともあって、発達障害者の性質などを正しく伝えられにくい状況になってしまっているのも事実でしょう。
だからこそ、障害当事者が自分たちの言葉で自分たちのハナシをすることは大事なのですよ。
私ごとのハナシを、私ごとに関係する人や、私ごとに興味を持つ方にお話しすることが大事なのですよ。
有名なあの人だからこそ聞く耳を持つファンがいるかもしれません。
ただ、関心を持たないオーディエンスに向けて情報を発信するとは、メリットがある反面、デメリットも存在するのです。
キラキラ系カミングアウトがもたらすメリットは、染みついてしまったマイナスイメージの払拭などの効果がある反面、冒頭の同和教育の事例のように、自分事にならない「よそよそしさ」が、他人事として問題を遠ざける危険性がある…というデメリットも存在するワケですよ。
アクションを起こせばそれに対する反応が返る…それが必ずプラスに出るとは限らないのですよ。
ましてや社会に向けた大きなアクションであれば、その反応がプラスにもマイナスにも表れてくるのは当然でしょう。
全てが私の希望通りの反応があるなんて、まずあり得ないでしょうね。
有名人の「発達障害カミングアウト」は、私の発達障害の代弁ではありません。
それは、その方ができる「発達障害を持つ私」の発信であって、当事者の声でしかないのですよ。
社会的な人権問題として「救う存在」という立場から見ると、当事者視点か薄くなるのだと思います…それは冒頭の「同和教育」を他人事として聞いてしまった私がマイノリティの立場になって感じる反省の上にあるのです。
報道する側の方には、「他人事の人権問題」ではなく、「自分に関係する困りごと」の視点を意識して欲しい…などと、私は思うのです。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?