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Episode 340 社会に繋ぎとめるのです。

私の若い頃は、女性のピアスが「不良」の象徴にされていた時代。
今はピアスで眉を顰める人はいないでしょうね。
社会の容認と変化とはこういう事だと思います。

昨日 Twitter で私がツイートした言葉です。
昨日のブログを補完する意味合いでの発言です。

人が文明を進化させる中で隠してしまった性の部分は、「生命力が強いものだけが生き残るというワケではない」という種の保存の原則とは違う側面を生み出したのだと思います。
それは「美しい」かもしれないし、それは「頭が良い」かもしれません。
人を「愛す」とは、その社会に見合った価値観でその時代に現われるもの。
それは違う…というのなら、タイムマシンで過去に飛んで、その時代の風習文化の中で現代を貫き通せるのかを考えてみてください。
私にはできる気がしません…。

時代に合わせて愛の形は進化する。
生物的には考えられない「同性に対しての愛」が現実として起こり得るのは、人間が文明を進化させる過程で性と愛を分けたから。
美しいものを性とは分離して考えられるようになったから。
その一方で、同性であっても性的な絶頂を獲得できる術を人間は体得していて、性的な満足を得ることも可能だということ。
愛と性はその対象の分離も融合も可能な形に進化して、それに合わせて「社会の常識」も変化していくことで容認されていくのだと私は思います。

但し、それに対しての保守的な風当たりは当然のようにあるのです。
それが昨日のタトゥーの話であり、冒頭のピアスの話なのです。

私自身の価値観は、ASDとしての思考によって形成されていると思っています。
パートナーを好きになった理由だって、極めてASD的な美的な価値観によると思います。
ただ、私が普通だと思って疑わなかった「私の価値観」が「社会の常識」ではなかったった部分は数多くあった…それはパートナーとの生活で大きな障害になったワケで、彼女と一緒にいる中でひとつずつ教わって意味を理解してきたように思います。

パートナーがコミュニティの中で獲得した「現代的な常識」に則った愛は、キチンと今風の自転車の形をしていて一輪車を2台乗り換えるような私の愛とは形が違ったのだと思います。

私は必ずしも社会的な常識を纏った愛の形が素晴らしいとは思っていません。
ただ…この世の中を生き抜いていくには、最低限の社会的なスキルを理解する必要があるワケでして、そこには「社会の常識的な思考とはズレている自分」という認知が必須だと思っているのです。

ASDの私が、定型者の思考を完全に手に入れることは困難です。
自分の未熟な社会性がASD思考の歯止めにならない…そんな暴走があれば、途端にパートナーを傷付け自分自身を苦しめるとキチンと理解しなければなりません。

愛と性という私の中の「バラバラをふたつ」を繋ぎ合わせるということ。
それは私の「性」を「現代の社会性」というピンで止めて愛という形にすること。
社会性を理解して、「社会にonする」という作業をすること。
パートナーを愛するということは、きっとそんなことをする事でやっと形にできるものなのだと思うのです。

定型者が感覚的に考えられる「愛」なるものを、こうまでして切り刻んで理解するしかない「バランスの悪さ」を、私は抱えて生きている…という気がしてならないのです。

旧ブログ アーカイブ 2019/8/20

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