Episode 673 努力とストレスは見えません。
今回の話題も、この問いに関して「私が思うこと」です。
前回の記事で、私は「この問いは現代社会でのASDの立ち位置を明確に表してる」ということをお話ししました。
この「魔法の薬を飲みますか?」という問いには、ASDという先天的な脳機能の特性によって発生してしまう目に見える不具合を「障害」と呼び、その障害があっても不具合が出ないように求める社会の現状が隠されていると私は感じるのです。
コレはつまり、「医療モデル」と呼ばれる社会福祉の方策が世の中の考え方の中心にあると私が考える理由に他ならないワケでして。
引用させていただいたツイートは、私が大事にブックマークしているものです。
2020年の2月のものですから、今からもう3年以上前のものですけれど。
障害を取り巻く考え方の中心に「医療モデル」があり、その対面に「社会モデル」という考え方があるのだということを、これほどわかり易く伝えている文章を、私は他に見たことがありません。
『しょうがい者という言葉は言われた人が嫌だから言い換えよう』と提案した「9歳の君」の優しさは、すごく良くわかるのです。
そしてその優しさが純粋でストレートであるからこそ、障害が世の中でどのように扱われているのかも真っ直ぐに伝わる…ワケです。
つまり、「障害がある」と認定/診断されるということは、社会一般から見て不具合があり、障害者の持つ不具合をフォローする福祉で一般社会に対応してもらう…という方向で世の中は回っているワケですよ。
何度も言ってしまいますが、コレが「医療モデル」の考え方なのですよね。
ところで、どうして「医療モデル」という考え方が社会標準となっているのだろう…って、考えたことありますか?
それはきっと「医療モデル」という考え方がとても単純だからなのだ…と、私は思うのですよ。
最近のクルマってスゴイですよね…。
自動運転技術が進化して、衝突回避のためのブレーキサポートや車線はみだし防止アシスト機能とか、より安全に快適に乗れるようになってきたワケですよ。
私が運転免許を取ったころなんて、サポート機能は一切ない「フルマニュアル」のクルマの運転ができないと免許は取れませんでしたからね。
クルマの運転に関しても、免許の取得に関しても、私が運転免許を取得した今から30数年前よりも格段に楽になっていると感じます。
クルマ本体の安全性能(技術)が向上したことにより、運転はより楽に快適になったのは事実でしょう。
コレによってクルマの運転が(技術的に)可能になった方の割合は増えたに違いない…と私は思います。
それでもクルマの運転が得意な人もいれば苦手な人もいるワケです…障害の有無に拘らずね。
「安全で快適」という便利を求めるのは、方向性として間違っていないとは思います。
でも、実はコレが厄介の元なのかも知れない…などと私は感じることがあるのです。
より手軽に安全快適にクルマの運転ができるようになり、簡単だからこそ運転できるのが当たり前の世の中になってしまったとしたら、運転できない(または極端に苦手な)人がいることに「こんなに簡単なのに、何で?」という疑問が付いてしまった時の説明は難しいものになると思いませんか?
同じことはPCや携帯電話の進化についても言えること…日進月歩のデジタル技術、使いこなせれば便利だし、使いこなせることが当たり前になりつつある中で、コレが苦手な人に対してどのようにサポートしたら良い?
手軽で身近な「なくてはならないもの」になればなるほど、それを活用できない人のサポートは重荷になるのだと思います。
より手軽で便利な…という方向の進化は、「今の世の中に於いて」という但し書きが付くのですよね。
この方法で多くの人が救えることは否定できません…それはクルマやデジタル技術の進歩のように、難しかった操作が改善されたことによって多くの人に普及したことを考えれば間違いないのです。
ただ…全ての人を救うことは難しいということも見えてくるのです。
だってそうでしょう…実際に今の技術を以てしても、クルマの運転ができない(または苦手な)方やPCを使うことに苦手意識がある方をゼロにすることはできないのですから。
「医療モデル」という考え方では、障害が「できない人」として分断されてしまうのは当然なのですよね。
その分断を作る方向の支援/福祉に向かってしまう理由は、多数派が作り上げる社会を弄らなくても良い単純さがある上に、障害に対しての対策で「それなりの成果」は出せる…見かけ上はね。
できることが標準であるから「出来る」への単方向で物事が語られる、「できることが当然で幸せである」とした時に、障害を持つ方は「出来る方向への努力」を強要されるワケで、出来ないを抱える当事者の気持ちが取り残される可能性は考慮されない…。
社会生活を送る上で「不具合がない」あなたにとって、出来るのは当たり前で、出来るようになるための大きな努力も必要としない一方で、支援を受けながら常に努力を求められる立場の人の「できた!」は、果たして幸せなのか?
「魔法の薬を飲む」という人が多数を占めたこの問いの裏に隠される、ASD当事者の社会適応への努力とストレスからの解放という側面を、私は感じずにはいられないのです。
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