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Episode 738 「ない」の連鎖を知るのです。
私はこの私のnoteアカウントでの記事でも、それと連動することが多いSNSでのアカウントでも、Autism 性の問題のスタート地点に「他者視点がない(または弱い)」を置いた上でお話しをしているのですが、はてさてその「他者視点」とは一体何なのでしょうねぇ…。
他者視点って、あくまで「自分」が想像する範疇での他者の気持ちでしかないので、他者当人の本当の気持ちは当人にしかわからない。
— 餅餅茶【鮹船茶】 (@12theearthqq) February 21, 2024
そう考えると全人類が他者視点などないとも言えるし、他者の気持ちを想像するだけなら全人類が他者視点ありとも言えるのではないかな、と思うなどした。
餅餅茶【鮹船茶】(@12theearthqq) さんのポストが云わんとするところは「その通り」で、誰もが「私と相対するあなたの気持ち」など分かるワケはないのでしょう。
では何故、私のような Autistic は「他者視点がない(または弱い)」と評されてしまうのか…と問えば、「あなたと行動を共にするのに必要な最低限の『私の配慮』を、あなたが私の言動から感じられないから」だと私は思うのですよね。
つまり、あなたは「あなたが思った通りに私が行動する」なんて思っているワケではなくて、私の言動に「あなたを慮る仕草」を感じないことに「人間味の無さ」を見出してしまう…ということなのでしょう。
それは、例えば私の過去記事「ナチュラル故に気付きません。」で書いたようなエピソード…長男がツバメの巣を見上げて写真を撮って送ってくれる…のような、私を慮る「ちょっとした心遣い」のようなものの弱さの、日々の積み重ねが作り出すものなのだろう…などと感じるのです。
ひとつひとつの行動は、さほどズレていないのかもしれません。
大体にして、定型/典型のあなたであっても全てに於いて「誰かへの配慮」が優先されるワケもなく、慮った結果「逆効果」なんてこともあるのでしょう。
ただ、そこには「あなたがいて」という意識がベースにあった上で「私はどう行動するのか」という意思が存在するとした時に、私も同じように考えられるのか…。
あなたを慮った結果として、「私にどのように行動して欲しいと思うか」を考えるのか、「私はどのように行動しよう」を考えるのか。
そこにある違いは、私という人間を能動的に動かす思考が「受動的」か「能動的」か…という部分に決定的な差があるように思うのです。
私の「あなたを慮る」は、あなたを慮るほどに前者が強く出る…結果として「あなたに合わせて私の言動を置きに行く答え合わせ」になるから、「何でそうしたの?」という問いかけに答えられないように思うのです。
「え、違うの?」とか「そうして欲しかったんじゃないの?」…とか。
その言葉に「私はこう思った」が見えて来ないからねぇ。
「他者視点がない(または弱い)」とは、結果として他者との関係性に於いて「『自分とは』の意識に弱い」ことを作り出すのでしょう。
その一方で、自己(エゴセントリック)視点は強烈に強いワケですから、誰かを慮る必要のない部分に於いては「私の存在感」も当然強く出るのでしょう。
他者との関係性で「上手く」自分を表現できない一方で、自分の世界は強くある…と周囲から見られらのなら、「自閉」という表現には「なるほど」と思う部分かあるワケでして。
さて…前回の記事「学習で改善されません。」では、定型/典型優位の社会で Autistic に期待される社会性の獲得が、自閉度の低下(改善)によって得られるワケではないのではないか…と指摘しました。
自閉度が下がる(定型/典型一般の言う他者視点を獲得する)…であれば、経験による学習によって社会性は向上するでしょう。
でも、自閉度は変わらない(定型/典型一般の言う他者視点は獲得できない)…であれば、経験による学習は、知識の積み上げでしかなく、その知識を使うために知能というリソースを割く動作(行為)が挟まることになるワケ。
恐らく、定型/典型優位の社会が求める「社会性」とは、他者を慮った上で「自分とは」を明確に打ち出して、他者との調整をしながら自ら行動する…という意味ですよね。
だから、定型/典型者が求める「学習」とは、「アロセントリックな視点が作り出す『自分とは』の獲得を指す」…ということですよね。
その獲得に必要な要素として「アロセントリックな視点」があるとしたら、私は『自分とは』を獲得する自信が、ありません。
典型発達の側からすると、当然これは人間の普遍性に含まれると思い込んでた事が ASD に該当せんことでごそっと引っこ抜かれるんやなあ。そこで認知的不協和が起きる。興味深いのは ASD を自覚してなかった当事者は自覚した時点で、人間の普遍性への二重の認知的不協和が来る。#ニューロダイバーシティ https://t.co/aktmLhPM03
— レイ@毎日がロードムービー (@wagonthe3rd) March 28, 2023
残念ながら、人間に「普遍的にある」と思われている部分が存在しない…は、私の経験上「ある」ワケで、でもその「普遍的にある」と思い込んでいるからこそ「学習で獲得できる」は成立するのだとすれば、この様な場合「定型/典型者が思う学習による獲得」は可能なのか…。
現代社会の「社会性」を作り上げている定型/典型一般の方々の感覚では普遍的に備わっている、「当たり前」であるアロセントリック視点が弱いことか作り出す Autism (自閉) の世界は、定型/典型一般の方々と同じ感覚で学習成果が出ないのだと思います。
定型/典型という社会的マジョリティは、「ない」が作り出す「ないの連鎖」という仕組みがあることを知る必要があるのだ…と、私は思うのです。