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Episode 695 スイートコーンにはなれません。
トルティーヤ(スペイン語: tortilla、IPA 英語:[tɔːrˈtiːə]、スペイン語: [toɾˈtiʎa])は、すり潰したトウモロコシの粉や小麦粉から作るメキシコ、アメリカ合衆国の伝統的な薄焼きパンである。
メキシコでは主食として食されている。
トウモロコシ粉を使った食品と言って、真っ先に思いつくのは…先ずコレでしょう。
そして、トルティーヤの上にさまざまな具材を包んで食べる「タコス」と言えば、メキシコ料理の代表格…美味しいですよね。
その他、トウモロコシ粉から作られる食品と言えば、食品と言えば…いっぱいあるのでしょうけれど、残念ながら馴染みがなくて出できません。
そのくらい、粉にしたトウモロコシは、日本の食卓に馴染みがない…ということでしょう。
日本でトウモロコシと言えばスイートコーン。
やっぱりお祭りの屋台で売られている、ちょっと醤油とバターを垂らして香ばしく味付けた、アレ…ですよね。
トウモロコシを主食として食べる地域は、当然「トウモロコシ(粉) を如何にして美味しく食べるか」を考えるワケで、そこに食文化が生まれるのですよね。
米を主食とする日本で「ご飯」を美味しく食す文化が発達したのと同じ理由が、そこにはあるワケですよ。
さて…定型(典型) のあなたをスイートコーン種、ASDの私をデント種に見立てたASD×定型(典型) のパートナーシップのハナシも第3話になりました。
前回のハナシは、ASDの私が定型優位の社会には「あって当然」と思われている「他者視点がない(弱い)」ことをどのようにカバーしようとしたのか、その結果として社会的価値観に依存する「受動」という方法を見つける、その「生きる努力」ということにまつわるものでした。
定型一般のあなたから見れば「同じ失敗を繰り返す愚か者」、何故「失敗から学ぶ」という当たり前の成長ができないのか…という疑問の裏側には、ASDの間違えない方法の獲得という努力があるのだ…と、私は指摘したのです。
自認できていないASD者が思っているのは、
— ዘዐ+(ዘዐፕልነ) (@HOTAS10001) September 11, 2019
自分は正しいではなく、
自分は間違えていないです。
少なくとも、私はそうでした。
この違いがわかりますか?
社会的価値観に依存するとは、間違えていない価値観への依存とほぼ同義ですからね、その考え方に沿って行動すれば、行動を修正すべきは私ではないことになるワケです。
結果として、私の失敗は失敗した時点で放置され、その失敗は「なかったもの」して消え去ることになるワケですが、定型(典型) のあなたから見れば、失敗の残骸はそこに残ったままなワケです。
改めてこれを。
気が付けば "Reset" で再スタートしたハズの私の周りには、私が "Reset" する時に放棄した行動の残骸が山盛りでした。
私はその残骸を "Reset" で見て見ぬふりし、その一方で周りの人たちはキチンと形あるものとして残骸の存在を認識していたということなのでしょう。
ASDの私は、私のASDを自覚する中で、自分の社会的価値観への依存を理解していくことになるワケです。
それは、私が定型一般とは違う考え方をしていることを知る…ということでもあったワケです。
ここに来てようやく、あなたが私に「なぜ失敗から学べないのか」と問うてくるのかという、その理由に到達するのですが、ここに次なる関門が待ち構えているとは、思いもしないことが多いのです。
それはつまりね、この社会には、トウモロコシの調理法がスイートコーンのものしかないことが多いということ。
ASDを自覚した私は、他者視点がない(弱い)という特性を抱えた状態で、他者視点があることが大前提の方法でがんばろうとするし、定型(典型) のあなたもそれを望む状態が作られやすいワケです。
他者視点がない(弱い)からこそ別の方法を探し出した過去があるにも拘らず…です。
何度も言いますがASDは「自閉」なんですよ、自覚したから自閉が消えるワケではないのです。
— ዘዐ+(ዘዐፕልነ) (@HOTAS10001) October 13, 2020
だから、自覚したASDとは言え、ASDの思考・行動のパタンを完全に消し去ることはできないのです。
だからね、あなたが予想できないガッカリさせるような言動がポロリとこぼれることが、なくならないのです。
ASDの私は、ASDを自覚したらASDではなくなるワケではないのです。
でも、定型(典型) のあなたはどう思うでしょうかねぇ…。
自覚したのに、あなたのやり方が一般的ではないと理解してくれたのに、何で直せないの?
ASDの自覚とは、つまり私はスイートコーンではなくデントだったのだ…と、理解することなのですよね。
だから、スイートコーンの調理法で美味く焼ける…ではないのですよ。
でも、デントに馴染みのない私たちの社会は、デントをデントとして美味く調理する方法を知らないことが多いのだと思います。
定型(典型) 側の「何で直せない?」の裏には、同じくASD側の「がんばっているのに何で上手くいかない?」が隠されていることが多いと感じます。
その背景には、品種に合った調理法を選択しているのか…という「そもそもの設定」が合っていない場合も多いように思うのですよね。
社会はマジョリティに都合よく出来ているので、よりスイートコーン寄りの位置どりの方が生活し易いのはその通りとして、でも全てをマジョリティに合わせるのは難しい…なら、どうしたら良い?
ASDの自覚と自認は違うということを、ASD当事者もその周囲の方も、明確に知る必要がある…と私は思います。
例えば「ASDの私はコミュニケーションが苦手」と知って、コミュニケーションが出来るように退路を断って苦手と向き合う…が正解とは思えないのですよ。この方法では、きっと私は病んでしまう。自覚ではなく自認という作業は、出来ないを認め、だからどうするを探る作業なのだと思うのです。 https://t.co/9H2sSmTLca
— ዘዐ+(ዘዐፕልነ) (@HOTAS10001) July 25, 2023
ASD×定型(典型) のパートナーシップで陥り易い罠があるとすれば、自覚直後のスイートコーン化への努力…コレは要注意なのだろうと思うのです。