哲学を歩き続けるためにどうしようか
哲学とは机に座ってうんうん唸りながらいじくり回すものだ、と考える人は多いだろう。
そして、「机に座って考えるなんてつまらない」と感じる人もいれば、「机に座って考えるなんて至高だ」と感じる人もいるはずだ。
しかし、机に向かって鉛筆を噛みつづけることでしか哲学はできないという、その前提は正しいのだろうか?
まず定義から確認しよう。「哲学」とは何か?すなわち、「哲学」とはどういう目的を持っているのか?
私は、究極的には「哲学」とは「生きる意味を考える」ためにあるのだと思っている。そのために、難しい理論や何やらが存在しているんだと思う。
では「生きる意味」を考える人が、机に座っていて動かないでいいのだろうか。いや、それではきっと不十分だ。
きっと、哲学には人との対話や、自然を見ることが必要だと思うの。
「対話」というのは、別に飲み会で楽しんだり、たくさんのイベントに顔を出したりすることに限らない。見知らぬ人に声をかけたりするのでもいいし(「今日この店半額なんですねー」とか)、大好きな友達とちょくちょく会って話すのだって対話だ。
自然を見ると書いたけど、別に自然じゃなくても構わないと思う。例えば城を訪ねるとか、プラネタリウムに行くとかなんでも。
要は、「対話」や「自然」と挙げたのは、一人で生きていては得られなかったであろう何かがそこに在ることを認識しなければいけない、ということを意味するのであり、脳内のある一種の回路を活性化させなきゃいけないということだ。
たとえば、「対話」の例として、「知らない人に声をかける」というケースを見てみよう。
あなたは、素敵なアンティークのスーツケースを運んでいる男性を目にしたとする(女性でももちろん構わない)。
そのスーツケースを見て、「ああ、なんて素敵なスーツケースだろう。」とあなたは思い、ふと例の男性にその思いを伝えたくなる。
しかし、あなたはこう思う。「急にスーツケースを褒めたりしたら、変な人だと思われてしまうかもしれない。やっぱり話しかけるのはやめておこう。」
そしてあなたは、男性が通り過ぎていくのを釈然としない気持ちで見送る。
そうなれば、「男性のスーツケースを褒め、彼と少し話をする」という可能性は、永遠にあなたの頭の中にしかなくなるわけだ。
しかしである。もし、あなたが変な人と思われるリスクを冒して「素敵なスーツケースですね」と男性に話しかければ、そこからまた新たな可能性が発生する。「男性があなたを変な人と思い足早に通り過ぎる」可能性、「男性があなたを変な人とは思わずに、礼を伝えてくれる」可能性、そして「男性があなたを変な人とは思わずに、会話を始める」可能性だ。
具体的な行動を考えるなら、彼は「あーありがとうございます。」と礼を言ってそのまま立ち去るかもしれない。または「そうなんですよ、僕も気に入っているんです」と彼は立ち止まり、その隙にあなたは「ええ、そう思います。あなたはこれからどこに行くんですか?」と尋ね、そこから会話がさらに発展するかもしれない。
つまり、そういうことだ。こういう風に、無数に可能性が分岐していくこと、それが「一人で生きていては得られなかっただろう何かがそこに在ることを認識する」ということだ。
「何かを認識する」という言葉を使ったのは、もちろん意図がある。「何かを得る」では不正確だし楽観的に過ぎるだろう。なぜなら、行為を行ったところで、その何かを得られない場合が往々にして発生するからである。
例えば、先ほどの例に戻ろう。あなたが話しかけた結果、男性が「なんやこの人、急に話しかけてきて」と訝しげな顔をして足早に立ち去るとする。この場合、当然あなたと男性の間には対話が発生しない。したがって、あなたは外部からの成果として何かを得ることができない。
しかし、あなたは彼に話しかけることによって「彼が会話に応じない」可能性と、「彼が会話に応じる」可能性の分岐を作り出したわけである。この「分岐を作り出す」というのが「何かを認識する」ということだ。必ずしも成功しなくても、その行為の意味は十分にある。
これが、哲学に必要な「対話」の在り方ではないだろうか。
でも、こういった対話だけを試みていればいいのではない。時に立ち止まって、そう、机に向かってパソコンに向かって、一人で「結局私は何で生きているのか、私が私である必然性は何なのか」と考えることも必要である。立ち止まること、それこそが哲学の必要条件でもあるのだから。
結局何事もバランスよ。そんなことを、古代ギリシャの哲学者も言ってた気がする。いや、言ってなかったかも。