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noteを書くと身軽になっていく

私は物事を継続するのが苦手である。生まれてこの方、なにかを1ヶ月以上自発的に継続できた記憶がない。

格闘技を見て勢いで筋トレをはじめても3日後には階段を上るという日常動作すら億劫に感じてくるし、モテたいと思ってダイエットを決意しても次の日にはコーラとポテトを豚のように貪り食っている。

そんな私が、また性懲りもなく叶いそうにない目標を立てている。それは、「3ヶ月毎日投稿」である。もともと文章を書くのは好きなほうなので、記事を作ることに抵抗はないが、いかんせん飽き性である。3月ごろにnoteを始めたのはいいものの、すぐさま書かなくなってしまった。

学校を休むと次の日も行きづらくなるのと同じように、noteを一日休むと次の日も書くのが面倒くさく感じてしまう。一度記事がそれなりにバズったことがあるが、むしろそのことで何かしらの欲求が満たされてしまい、更新頻度はみるみる下がっていった。

しかし、noteを書かなくなるとあることに気づくようになった。noteを書かない日は、なんだか寝付きが悪いのだ。快眠に入るとき特有の”ストン”という感覚がないのだ。はじめは理由がわからなかったが、それはおそらくnoteを書いていないことが原因なのだろうと仮説を立てた。

そういうわけで、私は先週の日曜日からコツコツと毎日投稿を始めることにした。目標は3ヶ月間書き続けることで、なおかつ自分が納得できる文章であることが条件だ。

これまでの経験上、明日にでも頓挫する可能性が”投げ捨てたティッシュがゴミ箱から外れる確率”ぐらい高いわけだが、なぜだか1週間が経っても毎日投稿が続いてしまっている。

そしてnoteと寝付きの関係についてだが、やはりnoteを書いた日は普段よりも良い睡眠を獲得しやすい感じがする。なぜなのだろうか。

自分にとってnoteを書くというのは、一体どういうことなのか。これまで深く考えてはいなかったが、一度しっかり腰を据えて向き合ってみることにした。

2日3日と熟考を重ね、ついに私は「全然わからない」という解を掴み取ることに成功した。「おじさんはなぜnoteを書くの?」と純朴な子供に聞かれたなら、「知らん」と答えるほかないのだ。

とはいえ、なんの成果がなかったわけではない。壁を見つめながら黙々と考えていると、突然電車の座席に座っている自分のイメージが頭に浮かんだ。

座席には自分以外にもいろんな人が座っていて、それぞれがスマホをいじったり寝ていたり本を読んでいたりと思い思いのことをしている。人々の頭上にある網棚には、大なり小なり荷物が置かれている。もちろん私の頭上にも荷物が置かれている。それも大きな荷物だ。

その大きな荷物のことで私は思い悩んでいる。この荷物をどう運んだものか。中身は一体なんなのか。そもそもこの荷物は自分のものなのか。そんな漠々とした不安を抱えている。

そんな折、私はスマホを取り出し、noteにその気持ちを綴り始める。すると、網棚の荷物が少しずつ小さくなっていく。noteを書き終える頃には、荷物は手のひらに収まるぐらいの大きさになっている。

そんなイメージを思い浮かべた私は、noteを書くことについてこう思った。「おそらく思考の棚卸しをしているのだろう」と。

人は普通に生活していれば大なり小なり悩みを抱えるものだ。あるいは喜ばしい感情だったり、好奇心だったりするかもしれない。そんな自分だけでは抱えきれない”思考”が網棚の上に置かれ、私たちの頭上に蓄積されていく。

しかし、noteを書くことで自分の抱えていた感情や想いといった抽象的なものが形になることで、荷物の整理をすることができる。とっちらかっていたものが徐々に収束し、やがてポケットの中に入るようなサイズになっていく。ポケットに入るようになった荷物は、いつでも取り出せていつでもしまえるようになる。

日々noteを書くということは、もしかしたらそういうことなのかもしれない。その日その日の思考の棚卸しをすることで、自分自身を身軽にする行為なのだ。身軽になることで普段は意欲がわかなかった新しいことに挑戦できるし、ちょっぴり人に優しくなれる。

そう思うと、なんだかnoteを書くことが楽しくなってくるではないか。というわけで、飽き性の私はひとまず3ヶ月毎日投稿を目指して頑張ってみることにします。

3ヶ月後、身軽になりすぎた私はもはや鳥になって飛んでいるのかもしれない。そんなくだらない妄想をしながら、コツコツと頑張っていこうと思う。



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おダメさん
大事なお金は自分のために使ってあげてください。私はいりません。