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『アンダルシアの黄金の風』

※BL小説

【ヒマワリ】
 花言葉:「私はあなただけを見つめる」「愛慕」「崇拝」


 どこまでもどこまでも、燃えるような黄色が丘を覆っていた。
 ギラギラと照る太陽に炙られ、空気や大地にまでその乾いた黄色が染みこんでいる。俺の身長を越すひまわりで埋め尽くされたこの場所は、まるで黄金色の迷路のようだ。
 この場所で一年前に、初めてお前と出会った。
 この場所が、全ての始まりだった。それとも、ここが終わりの始まりだったと言えるのかも知れない。
 全てを失うのであれば、出会わなければ良かったのに。二人の出会いで残る物は、数え切れない程の写真と、俺の破れた心だけ。
 あの日も、ひまわり畑には、黄金色の乾いた風が吹いていた。


 ちょうど一年前の今日。俺は、ゴールデンウィークも終わった五月の後半という中途半端な時期に休暇を貰い、一人でスペインを旅していた。
 コルドバ近郊のひまわり畑に立つのが目的の一つだったから、黄色い海原に下り立った時には感慨深いものがあった。その時も大気は炒られたフライパンのように酷く熱く、時折吹き付ける風も熱気を帯びていた。見渡す限りの黄色い海には、蜃気楼が揺らめいていた。
 だから、お前が黄色い海をかき分けて突如現れたときも、最初は幻かと思ったのだ。目を上げた俺の前に、黒い服、漆黒の髪の男が、やはり真っ黒なごついカメラを手にして立っていた。夥しい黄色い花々を背にしていると、その人物だけがモノクロームの写真のように見えた。
 東京から来たカメラマンだと名乗った男は、森の奥の湖みたいな澄んだ眼差しをしていた。その男――お前は、唐突に俺を撮りたいと言った。何故承知してしまったのか、分からない。気がつけばお前は、俺に向かってシャッターを切っていて、俺は、ファインダーを覗き込む眼差しにいつしか捕らえられていた。
 その後、コルドバまで一緒に来たお前は、花の小径にある白い壁の愛らしい家々に目もくれず、俺ばかりをフィルムに収め続けた。メスキータでも、円柱の森を彷徨っている俺ばかりを追いかけた。
 こんな目で、見つめられたことなどなかった。
 冷たく熱い視線が、俺を追う。シャッターが切られるたびに、自分の何かが薄く剥ぎ取られていく。そして、レンズを通したお前の眼差しが、次第に俺の皮膚に、毛穴の一つに一つに、無数の官能の種子を埋め込んでいく。
 メディナ・アサーラで、廃墟となった宮殿跡を前にして、お前が、
「シャツを脱いでくれ」
 と言ったとき、他に観光客がいるのにもかかわらず、俺は抵抗することができなくなっていた。風化した石の礎にしどけなく寄りかかったポーズを取らされながら、俺は暑さによるものだけではない得体の知れない渇きで喘いだ。
 それからは、俺はお前のなすがままだった。お前にマヨルカ島に誘われた時にも、グラナダからセビリアにかけて回るはずだった予定を全て忘れた。美しい海の見えるホテルの部屋で、俺は最後の衣服と共に、羞恥も恐れも常識も何もかもを脱ぎ捨てた。
 カメラが俺を暴く。暴いてゆく。自分の目にも触れたことがない場所にまで、深く入り込み、攪拌し、俺の内奥を探っては何か赤裸々なものを持ち出して出て行く、そしてまた、さらにもっと奥深くまで潜ってくる。
 だから、ついにお前の肉体が現実の俺を貫いたときにも、俺にはもうそれが必然のようにしか思えなくなっていた。

 日本に帰ってからも、お前は俺を撮り続けた。カメラの前に肉体を晒しているだけだったのに、一枚撮影されるごとに自分から何かが抜き出されていくような感覚がある。今年になってから、秋に予定している個展に向けて、お前は精力的に撮影を続けていた。
 そして、その日が来た。
 その夜お前は、俺を撮ったポートレイトをパネルにして、アトリエに掛けて眺めていた。印画紙に焼き付けられた俺は、恋する者そのものの目をしている。
 そのパネルを長い間、冷徹な眼差しで見据えていたお前は、何も言わずに俺を抱いた。浅ましい俺は、久し振りにお前に抱かれるのが嬉しくて、冷たい床の上で何度も達した。酷く優しい長い情交が、別れの序曲だったなんて気付きもせずに。
 その翌日、いつものように会社帰りにお前のアトリエを訪れた俺は、信じられない光景を目の当たりにして立ちすくんだ。
 俺より若くて綺麗な男が、一糸まとわぬ姿で、アトリエの床に横たわっている。昨夜俺達が情熱的に交わった、あの床に。そしてお前は、その男に向かって無言でシャッターを切り続けていた。
 その日の撮影が全て終わるまで、俺はアトリエのドアの外でうずくまっていた。寒くもないのに震えて仕方がなかった。モデルの青年が帰った後で、お前はドアの外にいる俺を見た。そして、こう言ったのだ。
「個展には、お前の写真は使えない。他のモデルを使うことにした」


 それから俺はすぐに会社に休暇を願い出て、この場所へと恋の死骸を埋めに来たのだ。
 ファインダー越しに始まった恋だったから、俺はお前が他の男をあの眼差しで見つめるのには、絶対に耐えられない。いや、始まったと思っていたのは俺だけで、俺達の間には、恋愛など無かったのかも知れない。愛だとか恋だとか、そういう言葉は俺達にはなかった。撮る者と撮られる者、それだけの関係で、俺は被写体の一つでしかなかったのかも知れない。
 こんなに空気が乾いているから、涙を零してもすぐに乾いてしまうだろう。だから今こそ泣けばいいのに、涙が出てこない。
 俺は出会ったあの日から、お前しか見ていなかった。お前だけいればそれでよかった。
 だからお前は俺に飽きたんだろう? 俺の中には、きっとお前の知っている景色しかなくなってしまったんだろう? でも、俺にはそうすることしかできなかったよ。お前に心奪われて、常に太陽を向いているひまわりのように、お前に全てを向けていることしかできなかったよ。

 乾いた熱風が、ひまわりの迷路を揺らす。
 揺れた黄色の間から、黒い服を着た男が現れた。
 まるで一年前の繰り返しのように、お前が、そこに立っていた。
「見つけられなかったらと思ったら、生きた心地がしなかった」
 俺を抱き寄せたせわしく荒々しい仕草とは対照的に、俺の顔を確かめるように辿る指先があまりにも優しくて、その仕草は最後に身体を重ねた夜を思い出させる。
「……何で探したんだ」
 俺は混乱して、独り言のように問いかけることしかできなかった。幻を前にしているかのように、現実感がない。
「俺は、もうお前の役に立たないのに」
「あんな顔をしたお前を、人前に出せると思うか? あの顔は、俺だけのものだ。そうだろう? 俺はもう、お前を誰にも見せたくない」
 初めて見るお前の必死な顔が、だんだん滲んで見えなくなる。俺はいつも、お前だけを見つめていたはずだったのに。カメラのレンズ越しではないお前の眼差しが見えていなかったのは俺の方だった……?
 肌を灼く風がまた一陣吹き過ぎていった。続く抱擁と口付けは、目眩がするほどさらに熱く、俺を焦がした。

<了>

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