見出し画像

天職とは、呼ばれ続けること。

年明け1/1から高熱にうなされ、必死に体調を戻していたら、息つく間もなく仕事始めになっていた。

本当は1/1から働きたくて、やりたいことがたくさんあって、でもままならない肉体。

体調管理も仕事のうち、なんていうけどそれぞれの事情ってもんがあるじゃないか!と頭の中の架空の誰かに反論する。もちろん返事はない。

Instagramのストーリーに、友人たちの楽しそうなお正月の風景が並ぶのを横目に、仕方なく病み上がりの身体に鞭を打って、1/6から通常通り、いや通常以上に働いた。めちゃくちゃ働いた。

本当は早起きは苦手なのだけど、いつもの起床時間を3時間繰り上げて、眠い朝も仕事の時間に使うようになった。誘われていた食事会や飲み会はほとんど断って、ひたすら仕事に向き合う毎日。

仕事は好きだ。自分が持てる武器をすべて持って、うぉーーと雄叫びをあげながら、必死に課題に向き合う感じ。ときにはじっくり腰を据えたり、心温まる瞬間があったり、私の人生そのものであるとすら感じるときがある。

でも、さすがに体調不良によって失った時間を取り返すように働いていると、なんだか気持ちが疲弊してくる。

せめて、お正月遊び呆けて、その借りを返す形だったらどんなによかっただろうか。そんな泣き言を言ったところで、やはり〆切は来るし、仕事は終わらない。

昨年から私は、ずっとやりたかった仕事に携わらせてもらっている。その仕事をさせてもらえることになったとき、もう飛び上がるほど嬉しくて、「絶対良い仕事にするぞ」と息巻いていた。

でも、いざ忙殺されながら原稿に向き合おうとすると、私が書いた文字列はまるでベルトコンベアで送られてきたかのような情報の羅列に見えて、なんというか魂が乗っていないことに気がついた。急いで書き直す。

ここでいう魂とは特定のスピリチュアリティを指すものではなく、熱量というか、本気というか、切実さというか、そういうもののことである。

私はしがないフリーランスである。フリーランスである以上、仕事が止まることは文字通り終わりを意味する。仕事が頼まれ続けるなら、私はこの仕事を続けられるし、止まれば辞めるしかない。シンプルな話だ。

そして、そのシンプルな分岐点に設置された「続けられる」のボタンを押しているためには、自分が何を求められてその仕事に携わっているのだろうとか、仕事の先には誰がいるのだろうとか、大事なことをたくさん守らなきゃいけない。

それなのに、頑張れば頑張るほど忙しくなり、忙しくなると仕事の目的や目指す場所を容易に見失いそうになる。

なぜ私がこの記事を書かなければならないのか、なぜこの仕事を受けたのか、誰を喜ばせたかったのか、何を求め、何を求められているのか。

大事なカケラに土埃が積もって、姿形すら見えなくなってしまう。それでは、意味がないのに。

とはいえ、土埃は自分以外の誰にも払えない。だから、たまに払ってあげる習慣が必要である。そういうのを生活にちゃんと組み込んであげなきゃね。

大丈夫、磨いてみるとまだちゃんとキラキラしてる。振り返ると安心する。記憶の中の輝きは決して幻想ではなく、今ここに、私の手の中にある。

この前、尊敬している方に「天職とは何か」と聞いた。すると彼は「天職とは呼ばれ続けることだよ。仕事があって、そして頼まれつづければ、それは天職になる」と教えてくれた。

天職とは姿勢なのだと思った。目の前の仕事を、天職にしたいという、いじらしくも誠実な意志。その懸命さが表れた仕事に、きっと誰かの心が打たれて、また新たな仕事が呼ばれる。

私にとってライターは天職かわからないが、今は呼ばれ続けている。そして、呼ばれ続けたいとも思う。だから、呼ばれ続けるためにやるべきことがある。

今必要な結論はそこまでで、この続きはまた時間をかけて考えれば良い。まずは、温かい紅茶が必要だ。

いいなと思ったら応援しよう!

目次ほたる/Metsugi Hotaru
読んでいただき、ありがとうございました。 頂いたサポートは、今後より良いnoteを書くための勉強費用に使います。