権威依存のパラドックス
個人が自らの因果や利害の決着を公や権威に依存するのは、マクロ経済でいうと需要と供給のバランスか(efficiency)? いや多分違うな。最低賃金か最高賃金に近いものがあるはずである。
例えば気に入らないことがあればすぐに法律とか差別とかハラスメントとか言って自分ではない権威の力によって自らの敵に勝とうとする、近年流行の戦法である。この場合、その敵を始末するのに公の労力や金が必要だ。つまり自分の利害や憂さ晴らしに赤の他人の手と金を使う。
そもそも需給のバランスというのは、個々の利害を数値化できる(例えばこの場合、金(マネー)とする)と仮定した場合に、100人の利害と対する100人の敵の利害の需給線が交差する場所が最も効率が良いとするものである。
その一方で、結局経済にとって何が一番効率的かと問えば、それは各々の利害にそうした全体としてのefficiencyではなく、個々の都合に合わせて取引するのが最も効率的である? というお話。例えれば、たこ焼き一パック買いたいとして、貧乏人は6個100円しか出せない。でも金持ちは6個100万円出せる。同じ店で同じ人間が同時に焼いている同じたこ焼きである。100円のたこ焼きを金持ちだからと言って100万円出させるのは不公平だ、というのだが、じつはこれが最も効率的である、という経済のお話。10年以上前に学んだものなので詳しくは覚えていないが、この場合ならモノポリーでもいいんだったのではないか。
マクロ経済において例えば最低賃金は、この需給のバランスよりも高い値で権威が勝手に取引の最低価格を決めることである。これは経済学的には非効率を生む(inefficiency)。非効率を生むが市場がその後その最低賃金に合わせてくれることを期待しているのだと思われる。だが基本的には非効率である。これは仮に最高賃金を設定したとしても同様である。
同じように、個々人が自分自身の利害の決着を法やポリコレに依存するのは、非効率である。そもそも、昨今聞き及ぶような法律やポリコレというのは、需要と供給のバランスを図ったものではない。では何かと言えば、どこかの誰か、または団体の単なる想像である。こうあるべきだとかこれが当たり前だとかいう想像。誰彼によってこれは異なる。
inefficiencyがなぜダメなのかと言ったら、取引する二者の片方が得をして片方が損をするからである。先ほどのたこ焼きに例えれば、もちろんたこ焼き屋さんによるけれども、100円でたこ焼きを売るなら買い手が得をしてたこ焼き屋が損をしている可能性が高そうだし、逆に100万円のたこ焼きは買い手が損をしていそうである。
その権威が設定した値で取引を成立させるという点においては、争いにおいてはこの理論自体がどのように当てはまるのか、ここまでたらたらと書いてきてまだ腑に落ちない。戦争や喧嘩が効率的であるというのはefficiencyの観点からして間違っている。この手の争いはどちらかが損をして得をすることが大半である。取引が成立するためには争いの解決のために双方が同意する需給線がなくてはならない。ということは両者が生じた利害衝突の解決に向けて取引を行う意思があるということがせめてもの前提というわけか。双方がどれくらいの妥協で同意するかどうかというのは、それこそ個々の双方次第である。
こうした場合に、その需給線の交差する場所ではなく、片方に一方的に有利な場所で取引を成立させようとするのが、需給をまったく考慮していない昨今のポリコレ、反差別、それによって形作られる法である。これによって損を強いられる人々は抑圧され、鬱憤を積もらせていく。取引で損をするならその前提を共有しないことを選ぶというのは、ごく自然な成り行きである。
そしてこうした非効率性の積み重ねによって、腕っぷしが強い方が得をして弱い方が損をする戦争・喧嘩の火種がくすぶることが「ない」とは、どこの誰でも言えまい。
個人間の争いは個人間で解決することが最も「効率」が良い、として、ところが両者ともに解決のための取引の場に座る意志がない場合、喧嘩が次の選択肢に入るのだが、法やポリコレがどうどかを自分個人を差し置いてまず持ち出すような人々というのは、その喧嘩に勝てる自信がないのだろう。例えば、女なら、男と個人的に喧嘩して勝てる方法は多くない。
こういう時に、弱い方が権威の力を使って相手をねじ伏せようとするのだが。結論は変わらず、やはり非効率である。相手をその巨大らしい力で一度はねじ伏せられたことによって負け犬に転じるなら、まだ安心してよいが、世の中そんなにあまくない。相手の都合に合わせて負け犬になってくれるお人よしなど日本人くらいではないか。相手が世界になるとこの話は通じない。一度非効率で取引を成立させれば、火種が鬱積されていく。恨みは忘れまい。
戦争・喧嘩も、ポリコレ・権威依存も、結局非効率である。非効率は非効率を生む。片方が損をして片方が得をするという構図である(何回目やねん)。これはどちらか一方の問題ではなく、両者の問題である。なぜなら、こうした取引において勝者と敗者は転換しえるからである。例えば、一度は特定の権威的裁量で取引を有利に済ませても、次の取引では逆に不利になる、という。そうした状況を回避するために意識派はよく嘘をつく。
いずれ戦争になるのなら、腕っぷしは強い方がいい。弱いなら、強いやつと友達になった方がいいですよ。