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「サンダーマスク」に手塚の意地とマンガ家の悲哀を見た!

今回紹介しようと思うのは、手塚治虫の「サンダーマスク」という漫画だ。この作品は、もう兎に角いい意味で吹っ切れてる作品すぎて、人によって評価が天国と地獄ほど変わる作品だと思うので、一言でどういう作品だと言えば良いのか分かりません。(笑)なので、とりあえず僕が面白い!と思った部分をただただ書いていくんでそこんとこ宜しくゥ!
「サンダーマスク」の簡単なあらすじは、地球を征服するためにやってきたガス状生命体の「デカンダー」と、それを追ってやってきた「サンダー」。デカンダーは動物や無機物に取り付いて巨大化し、事件を起こすがサンダーも命光一(いのち こういち)に取り付いてサンダーマスクとなり、デカンダーに立ち向かう!って感じ。
この作品、サンダーマスクとか命光一とかも主役級の役割は持っているものの、語り手はなんと手塚治虫
いやあ、もう本当に手塚治虫なんである。手塚治虫がナレーターとして登場するとかじゃなくて、本人役で手塚治虫が作中に出てくる!
作品に手塚治虫が出てくるおかげで手塚治虫の本音丸出し!マジで丸出し。
そもそも本作は、虫プロから派生した「ひろみプロダクション」が企画したテレビ番組が原作であり、手塚治虫の「サンダーマスク」はあくまでコミカライズという位置づけだった。

そんで、手塚治虫は自分がコミカライズという自分でアイディアも出さない低レベルの仕事(これはコミカライズをけなしてる訳ではありませんよ。この時手塚治虫がコミカライズの事をそう捉えていたんであろう…..という予測ですよ。)をやらされることに不満だったみたいで、手塚の「俺の実力とキャリアとプライドがある限り、コミカライズなんて軽率な仕事は絶対にする事はないと思っていたのに」………..という情念(大事な事なんでもう一回言いますけど、これはコミカライズをけなしてる訳ではありませんよ。あと、勝手にこんなこと考えてた事にしちゃって手塚先生ゴメンナサイ)が作中ににじみ出ている。
作品の一部分で手塚が編集者に原稿の事を尋ねられて「どうもどうもまた案が……」と言葉に詰まったり、命光一に対して「どうせマンガ家がなにをいっても無責任だもんね」と吐いたりする。さらに、作中での手塚の編集者までもが、箱根の温泉(!)で、「手塚さんがサンダーマスクという くだらない(!)SFカイジュウにこったのです」と永井豪ちゃん(!)に向かって愚痴を吐いたりと、編集者&マンガ家の情念丸出しの世界観なのだ!
これは「サンダーマスク」じゃなくて「手塚グチ虫」だ!(手塚先生本当にゴメンナサイ)
だが!手塚治虫は、作中で、愚痴を吐いているだけでは無かった。手塚は、サンダーマスクの生みの親なのだ!少なくとも、作中では。(テレビ番組のサンダーマスクのデザインには、全く手塚は関わっていません。)
サンダーは、デカンダーが地球の物に取り付いた怪物が登場すると、命光一に取り付いて戦うのだが、実はサンダーが命光一に取り付いてもカラス天狗みたいな巨人にしかなれない。

だが、そのカラス天狗姿で戦うサンダーを目撃した手塚が、「おっかなくてあのかっこうじゃ人に見せられない」と一方的に評価。そして、スケッチブックを取り出すと、おそらく作中の手塚がコミカライズなんぞに追いやられつつも心の片隅で構想していたであろう漫画のキャラデザを投げ売って、「人目につく所ではそいつをかぶって歩けよ」。


こうして、手塚デザインのスーパーヒーロー、サンダーマスク誕生…..ってちょっと待て。
紙に書いたデザイン画を「被れ」とはなんぞや?そして「歩けよ」?サンダーマスクは歩くことが目的じゃないんだぞ。戦うヒーローなんだぞ。確かにあなたが書いたデザイン画を腹にテープで張って歩くことは出来るかもしれないが、戦う時には邪魔以外の何者でもないだろう。それに、我らの地球を守る者の容姿が、よくわからんヒーローの絵を腹に貼り付けたカラス天狗だと想像したら……….ちょっと嫌だね。
でも、次の戦いから普通に手塚がデザインした姿でサンダーマスクは戦ってたし、カラス天狗が登場することももう無かった。ホント、なんでだろ?もしかして、サンダーは本当は最初から最後までカラス天狗の姿で戦っていたのだが、目撃者の手塚が「人に見せられない」と一方的に判断し、フィクションの不可解な誕生秘話を付け足して、「サンダーマスク」という架空のヒーローを作り出した……………..。ということか?なんてちょっと意地悪な考察も出来るぞ。
って、まあ、フィクションの作品にいくらフィクションの作者事情を載っけても意味がないんだけど、「作者の都合」と考えるよりこっちの方が夢があるというかなんというか…….そういうことである。
もう一つ僕がこの作品で好きな要素を挙げると、「バイブル」の存在だ。「バイブル」というのは聖書の事ではなくこの宇宙の歴史を書いた文字盤のことらしい…….誰が書いたんじゃそれ。そして、バイブルはどの星にも一つずつ置いてあるらしい…………誰が置いたんじゃそれ。しかも、この文字盤は宇宙語で書かれていて、その挿絵的な感じで手塚治虫の顔が浮かび上がっている。(!)さらには、バイブルにはサンダーとデカンダーの身の上についてまで書いてあるらしい。
このバイブル、設定の時点で少々ツッコミどころが見えるのだが、それは小さい問題だ。それに、こういう物には少し謎があってこそ伏線ってものが出てくる。
で、大体こういう謎は物語の最後の方で明かされるが、「サンダーマスク」もその例外ではなかった。
手塚治虫は、デカンダーとの最終決戦に挑むサンダーマスクに頼まれて、バイブルをある機械を使って解読しようとする。
その機械というのは、雑誌の編集室のコンピューター。
な、なぜ宇宙語を解読するのに編集室のコンピューターなんだッ?もっとすごい奴が必要じゃないのか?言葉が出ないぞ。(出ないんなら書くなよ)
恐らく、手塚はマンガ家という仕事の宿命ゆえ、いつの間にか雑誌の編集室に依存してしまったのではないだろうか?
だから、宇宙語を解読するためのコンピューターを求めた時、編集室についつい行ってしまった…………….ということではないのか。ああ、このシーンからも手塚の悲しい宿命とか信念が読み取れてくるではないか……..。
ここから読み取れるのは、「仕事が不満でも、編集室に頼ることでしか生きていけないマンガ家の偶像」だ。
なんだそれ。悲しいッ。悲しすぎるぞッ!
だが、物語は我々をそのような悲しみに浸らせてはくれない。なぜなら、すぐに手塚の口からバイブルの中身が明かされるからだ。
待ち待った謎に包まれた「バイブル」の内容とは………………..?
それは、「デカンダーの倒し方」……………………………..。
それはまだいいって!
それより僕らは、サンダーやデカンダーの身の上や、バイブルに手塚治虫の顔が浮かび上がっていた理由について知りたいのだが、それらの事については何一つ触れられず物語は終わってしまった………..。

僕が思うに、この頃の手塚治虫は、自分の仕事に限界を感じてたし、出版社との関係も一方的な物になってきたし、自分の方でも出版社という物との付き合い方が病的になってきたな…………と感じていたのだ。そして、その感情は、「マンガの神様」であるはずの自分が「コミカライズ」をやらされた事によって確信的な物になった。だが、その確信こそが、新たな手塚のステップだった。
今の俺のマンガ家としての悲惨な状況を、「サンダーマスク」という作品を借りて表現してやろう!こういう気持ちが手塚の中で湧き上がってきたに違いない。
だから、手塚の中で「サンダーマスク」という物語のリアリティとか秩序とかはどっかに飛んでいったけど、自分というマンガ家の悲哀を表現する!
という試みはコンクリートのように固くなり、それがラストまで変わらなかったために、主人公であるはずのサンダーマスクより手塚治虫の影の方が濃い、ストーリー漫画としては微妙ながら、「私小説」ならぬ「私マンガ」としては実験的、意欲的、個性的、絶望的な、一言で言えば少々奇妙な魅力を持つ作品となったのだ。
そして、その「奇妙な私マンガ」と「根本的におかしくなっているサンダーマスクのストーリー」が結合した結果、俺みたいなコアファンには好かれる素敵な作品となったワケだな…………。
あ、僕が「素敵」って言うものは、大体の人は素敵じゃないって感じることが多いので注意してくださいね。

#今こそ読みたい神マンガ


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