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心に残る小学生時代の教科書作品

こんにちは、ほしまるです。

昨日、つぶやきにて紹介しましたが
国語講師をなさっている、ちょむらんさんが素敵な記事にて素敵な企画を提案下さいました。

ちょむらんさん、素敵な企画の呼び掛けをありがとうございます。

このテーマに沿って、是非書いてみたい。
そう思い、記憶を手繰り寄せてみました。

けれど不思議なもので、国語の授業において教科書で学んだ作品となると、意外と思い出せないことに気がつきました。

例えば、多くの皆さんが思い出すような、
「大きなかぶ」、「スイミー」、「ごんぎつね」...などなどすんなりと想起できる作品もあれば
パッと思い付いた作品が、果たして国語の授業で習ったものか、それとも本で読んだものなのか。
そんな感じで実に曖昧な記憶だったことに改めて気付きました。

小学校時代。
小学校の国語と言えば、教科書の作品の多くは
音読することを主に行っていた授業だったような気がします。
先生に指名されて読むこともあれば、皆で声を揃えて読むようなことも多かった。

先ほど挙げた「大きなかぶ」などでは
かぶを引っ張る時の掛け声を皆で揃えて音読したことも懐かしいですし、
皆で掛け声を合わせて、本当にかぶを引っこ抜いたような、そんな気分になったなぁ。なんてふと思い出しました。

記憶を手繰り寄せて、あれは絵本/本で読んだっけ、とか、
あれは確かに教科書の作品だったかも、なんて
思い出す作業もとても有意義でした。

どれを挙げるか、小学校時代だけでも迷いましたが。

1つ取り上げたいと思います。


スーホの白い馬

大塚勇三さんの作品「スーホの白い馬」。

このお話はもともと、モンゴルの民話で、
モンゴルの伝統楽器、モリンホール(馬頭琴)の由来とされる物語です。

お婆さんと二人で暮らす、貧しい羊飼いスーホ。
ある日、スーホは、道に倒れている生まれたばかりの白い馬を見つけます。
その白い馬を世話し、白い馬は立派に成長します。

ある時、スーホは、とある競走馬大会の噂を知り、白い馬を参加させようとします。
その大会で優勝した者には、王さまの娘と結婚できるという大会でした。

スーホは見事に成長した馬と共に大会で優勝します。

しかし貧しいスーホは、娘と結婚させられないと、銀貨だけを渡され、しかも白い馬を渡すよう命じられます。

当然、スーホは拒否します。
世話してきた大切な白い馬を渡せるはずがない。
ですが、拒否した結果、王さまの家来から暴力を受け、あげくに白い馬を奪われてしまいます。

スーホはなんとか生きのび、家に辿り着きますが
白い馬を奪われた悲しみは消えません。

その頃、白い馬は、なんと隙を見て逃げ出し、大好きなスーホの元に帰ろうとします。

けれど、非情にも、家来が白い馬に矢を放ち、命中。
それでも白い馬はスーホのもとに帰ってきます。

瀕死の状態だった白い馬は、スーホの看病むなしく、この世を去ります。

スーホは悲しみで眠れぬ夜を過ごします。
しかし、ようやくある晩眠りにつけたときに
夢の中に白い馬が現れるのです。

白い馬は、スーホに、自分の体を使って、楽器を作ってほしいと言い遺します。

そうして出来上がったのが、モリンホール/馬頭琴という楽器なのでした。

なぜ、「スーホと白い馬」が心に残るのか

今、こうしてあらすじを書いていても、なんと切なく、悲しい物語なのだろうと思います。

こども心にもショックだった点が沢山ありました。

・生まれたばかりの白い馬を、スーホが見つけなかったらどうなっていたのか?と想像して悲しくなってしまったこと。

・貧しいという理由だけでスーホは権力者から白い馬を奪われ、暴力をふるわれたこと。

・逃げ出したとはいえ、白い馬に矢が放たれたということ。

・白い馬が亡くなった後に、楽器になったということ。

そして何よりも、当時いじめられていた私自身と重ね合わせていたのかもしれません。

スーホのことも。
白い馬のことも。

私が疑問を持ったことは、残念ながら、授業ではすべて語られる/教わることは叶いませんでした。

「せんせい、せんせい。」
授業で教わらなかったことを、質問しにいく度に私は大声で担任から怒られました。

「授業で教わらないことは知らなくていいの!」
「本ばかり読んでないで、外で遊びなさい!」

遊べるはずなんてない。
だって私はいじめられていたのだから。

私は、両親から、幾度も質問して
その度に、父と母が分かりやすく、そして逃げることなく、現実として教えなければならないことを
しっかりと教えてくれました。

イラスト(挿し絵)もとても印象的なもので、幼いながらも、あらゆる意味でとても心に残りました。

生と死

よくよく考えると、小学校の教材でも、

結構なトラウマになりそうな悲しい作品も多かったような気がします。

以前記事で書いたことがありますが、日本において
死というものに対する教育、
私がかつて在籍していた研究室の専攻とも切り離せない学問領域としての
死生学(Death Education)という観点から見ると、
生と死/死生観というものは独特であり、またなかなか時代を経てもアップデートされず、そこまで大きく変わっていないように感じることは少しもどかしい気もします。

今や小学生で携帯、スマホやパソコンを使えてしまうのは当たり前の時代。
そして、ゲームやアニメなどもかなりリアルな描写のものが存在します。

もちろん映像などと同様、年齢制限のあるものもありますが、ちょっとでも誤魔化せば、小学生であってももう少し上の世代の学生、大人と同様のものを見たり聞いたりできてしまう。

小学生がSNSにも存在していると聞いたときには、やはりゾッとしてしまったのが正直な感想です。

命の尊さ

「いじめはいけないこと」

昔も今も学校でも、家庭でも教わっているはずなのに。

いじめというのはこの世から失くならないのはなぜなのでしょう。

「お前なんて◯◯ばいいのに。」(※敢えて伏せました。)と言われて絶望し、自ら命を絶つ若者も、大人も絶えないのはどうしてなのだろう。

小学校の段階でも
動物であれ、人間であれ、命の尊さ、というものを国語だけでなく様々な形で
教わっているはずなのに。

「あいつ(あの子)、◯◯でしまえばいいのに」
と言うこどもが存在してしまう世界というのは、
やはり辛いです。

「私は/僕は生きていてはいけないのかな。」言われた子はそう思ってしまうから。

かつて、私が味わった悲しい涙の経験を
同じように経験して、
小さな体で苦しみ、悩む姿なんて存在してほしくない。

私は今もそう願ってやみません。

読んで下さり、ありがとうございました。































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ほしまる
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