涙を我慢しない選択をした私
私は昔から人一倍、泣き虫だった。
おまけに年を重ねるにつれて涙脆い。
そんな私は、今では人前でも憚らず泣いてしまうことも多い。
なぜなら、「泣かない」ための我慢を無理にしていないからだ。
そんな大人は、みっともないかもしれない。
でも、私はとても人間らしい、と思っているのだ。
小さな頃の私に対する両親
私は小さな頃から、運動が苦手で、
それでいて よく転ぶ子どもだった。
転んだ痛さなのか、恥ずかしさなのかわからないけれど
泣きまくる私。
そんな私に両親はいつもこう尋ねた。
「ほしまる、なんで/どうして泣いてるの?教えて?」
両親は決まって私にこう声をかけていた。
もちろん、言葉だってうまく話せない時からだ。
「ころんじゃった」
「だれが?」
「私が」
「ころんで、どうだった?」
「いたかった。いたくてないちゃった
」
そこでまた涙が出ることも何度もあったと思う。
けれど
「なぜ泣くの」「どうして泣くの」
と声をかけてくれることで
子どもながらも、
「私はなんで泣いてるんだろう」
ということを整理して考えて、言葉で伝えようとしていたように思う。
「そっか。次からは気を付けようね」
そう良いながら絆創膏を貼って
「痛いの痛いの飛んでけー」
と両親に言われると不思議と痛さは一気に和らいだ気がしていた。
もし、私が転んだときに
「転んだらダメでしょ!」
とか
「泣いたらみっともない!」
と 両親から言われていたら。
きっと私の精神というのは少し歪んで育っていたかもしれない。
地獄のような幼稚園と小学校
しかし、幼稚園以降の生活では
そんな私にとって 価値観を根底から崩されるような衝撃な瞬間が沢山あった。
転んで 起き上がれず、血を流している子がいても
先生や園長先生は淡々とこう言った。
「男の子なのになんで泣くの?
ダメでしょ?」
「男の子なのに泣くなんてみっともない」
私にはわからないことだらけだった。
なんで泣くことがダメなのか?
そして
なぜ、男の子だと泣くことはみっともないのか?
それをいちいち、先生に聞くような子どもだったから
先生や園長先生には相当うざがられていたんだと思う。
先生たちがまともに答えてくれたことはなかった。
みっともないことを、感覚としてでもわからない私は
「かなり変わった園児」だったのかもしれない。
それは、何年もいじめられていた小学校でも同じだった。
小学校以降、我慢という言葉はさらに頻繁に使われるようになっていた。
整列の時も、同じ姿勢で我慢しなさい、から始まる。
鉄棒や跳び箱、失敗すると痛みを伴う運動や球技でも
「失敗したことが悪いのだから、痛いのは我慢しなさい」
というような言葉は私でなくとも他の運動音痴の子に何度も浴びせられた。
それだけじゃない。
当時は体罰に近いものはいくらでもあったから
何かあれば、先生から、分厚い本や
大きな定規で頭を叩かれた。
「痛い?そんなのは自業自得だから我慢しなさい」
私は運動音痴なだけでなく、友だちをかばったことで長いこといじめれていた。
しかも先生からも嫌われていた。
そんな私にとっては小学校という集合体は地獄だった。
帰りながらメソメソと泣く。
きっと母にも怒られるだろう
そう思いながら母の職場へ行くと
母はいつも頭を撫でながら こう言った。
「辛いときは泣くだけ泣きなさい」
母や父の前でも、妹がいるところでも、
私はどれほど泣いてきただろう。
そんな私を見る家族は辛かったと思う。
でも、私にとって泣ける場所があることで救われた。
泣いててもみっともないなんて言われない場所。
だからこそ、私はなんとか小学校のいじめも乗り越えた。
靭帯の損傷、そして半月板の剥離骨折という大怪我を、生徒から負わされても。
我慢の成り立ちを初めて考えた
その後、私は小学五年から 中学受験準備に入った。
公文、習字、そろばんなど習い事を辞めて毎日塾通いだった。
その時、よく周りから
「遊びたいのに我慢して偉いわねぇ」
と言われたことがある。
この時も子ども心に不思議だった。
なぜ、小学生は遊ばないといけないんだろう。
なぜ塾通いがガリ勉だなんて言われるんだろう。
勉強好きで、我慢なんてしていないのに。
私は思った。
みんな「大多数の人間が勝手に決めた判断」なんだと。
学校での理不尽な我慢もそう。
学校以外の過ごし方にしてもそう。
全部、大多数の人たちが勝手に決めたことで、それに従うことが常とされてるんだ。
子ども心に、みんな、ふざけるな、と思ったことを思い出す。
あちこちに存在する 我慢
中学以降も、つまらないところに【我慢】は存在した。
意味があるように思えない校則もそう。
そういう意味では大学時代、友だちやバイト仲間やサークルの人たちと過ごしている時間はとても平和だった。
会社、結婚してからの職場でも訳のわからない【我慢】は山積みだ。
生理休暇のシステムはあるのに
「これまで前列がない」などと言って取らせてもらえない部署だったので
毎月、死ぬほど辛い思いで働いた。
見える規則などよりも 見えない規則、というかルールのようなものがあちこちに存在してとても居づらかったり
働きづらかったりさせられる。
究極は、「嫌ならやめろ」という世界。
だから我慢は、いい大人になってもつきまとう厄介なものだ。
人生最大の悲しみを経て
この40数年間で、私がもっとも泣いたのは、
両親と妹を一度に亡くしたときだ。
喪主として、参列者に挨拶に追われたり色々忙しいのに
涙か止まることはなかった。
まだ20代前半だ。
これからもっともっと、両親や妹と話したいことも、行きたいところもあった。
その夢が絶たれ、絶望に落とされたのだから。
参列者の中でひそひそと声がする。
「ほしまるちゃん大丈夫かしら、あんな泣いてて」
「喪主の挨拶変わった方がいいんじゃない」
数珠を持った手を会わせながら
うるさい、黙っててくれと思った。
涙は止まらないけれど目を閉じた。
お父さん、お母さん、まめ(妹)。
挨拶の間だけ助けて。
亡くなってからまもなくお願い事なんて、と思うかもしれない。
必死に祈った。
数秒後。涙は止まった。
「...それと、どうか憶測でものを言わないでください。
旅行が好きな三人です。三人とも旅に行きました」
台本を作らずに望んだ喪主の挨拶も無事に終わり、
涙が溢れた。
死後二十数年たっても、未だに涙はでることがある。
でも我慢なんてしない。
無理するなんて、おかしいと私は思うからだ。
故人を想っているのだから。
嬉しいとき、楽しいとき、幸せな時でも涙は出る。
この幸せがいつまでも続けばいいのにという思いや、
感動からくる涙。
「人前で泣くなんてみっともない」
なんて考えは、おかしいと思う。
どんな性別、年齢であれ感情がある生き物だ。
その感情をめいっぱい出さなかったら
その圧し殺した感情はきっと蓄積されて
あとで体と心の調子を崩すことになるのだから。