徳川家康さま☘️をたどる#32☘️長篠の戦直前
初筆 2023年 4月 29日 / 加筆修正 未
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スタエフ配信:徳川家康さま☘️をたどる#32
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1 コンセプト
徳川家康さまはちょっと気の利く
フツーの人やってんやと仮定し
家康さまやその周囲の方々が
こんときはこー
あんときはあー
思ったんちゃうやろか、と、
いちおー書物や文献も引きつつも、
勝手に思いを巡らす
家康さまファンの思いを皆さまに届けます。
参考文献(一次資料)
三河物語 / 大久保彦左衛門忠教さま著
信長公記 / 太田牛一さま著
2 前回からのつなぎ
前回は以下を話しました❗️
信玄さま亡き武田家は勢力温存、🆚武田戦争は1573年〜1582年まで続く。隣国との小競り合いに日々が過ぎていき、織田家の援軍もしばしば頼む徳川家、誰がこのころ家康さまが天下統一すると予想できたであろうか💦
境界線の領国に安全保障するということは、タイヘンなこと。何かあったとき援軍を出さなくては鞍替えされてしまう。
長篠城は家康さまが取り、作手奥平の定能さま・信昌さま親子を入れ、家康さま長女の亀姫を嫁に出し親戚にし進退と領国の保証を確約
前回記事
⬇️
3 井伊家再興の意義
1575年・天正3年2月、地元である井伊谷を
追われていた、井伊虎松くん(後の井伊直政さま)が
徳川家に使えることになり、徳川家庇護の元
井伊家再興を果たします。
この井伊家というのは彦根藩として幕末まで続き
井伊直弼さまを輩出した井伊家です。
直政さんは瞬く間に出世
後に徳川四天王の1人となったのでした。
徳川家庇護の元井伊家再興を果たしたと聞くと、
ああ虎松くん、徳川家の臣下になったのねー、
という感想だけなのですが
これもやはり境界線の守備を固めるための
家康さまの事情、また、現代でいうと
どんな会社に入ってどう歩んでいくのかという
虎松くんの考え、があるかと思います。
このころ武田家の支配は、
井伊家伝来の土地、井伊谷まで及んでいました。
その境界線を少しでも押し返すだめには
井伊谷にて影響力を持つ井伊家の支援が
もっとも有効だったのです。
そうすることで井伊谷の人民が付いてきます。
また井伊家再興は井伊家にとってよい話、
もちろん武田家は井伊家を廃して
井伊谷を統治していたのでしょうが、
武田家に士官することもできたはず、
なぜ徳川家の庇護を選んだのか。
現代でいうと、完成された大企業に就職するか
海のものとも山のものともわからない
ベンチャー企業に就職するか、ですね。
もっと言い切るとギャンブルですが。。
それはともかくも虎松くんとその周囲の方々は
ベンチャー徳川会社に張った❗️🤣ということですね
4 大賀弥四郎事件
大賀弥四郎事件とは、家康さまの長男の
松平次郎三郎信康さまの家臣、岡崎で町奉行を
務めていた大賀弥四郎という中間上がりのものが
武田勝頼さまと内通し、武田軍を三河は足助方面から
岡崎城に入城させるプランが未遂で
発覚した事件です。
まずは三河物語の記述を抜粋してみます。
1575年・天正3年、家康さまの譜代を長く
務めている中間に大賀弥四郎という者あり、
奥郡20余郷の代官を任せられよく務め
豊かに暮らしていたが、
あまりの栄華に驕り高ぶったか
道義にもとる謀反を企て、主君を討ち
岡崎の城を自分の城にしようと考えた。
勝頼への書状には、
『ぜひとも今度、岡崎へお引き入れしたい、
岡崎を取り、家康親子は腹を切ることになろう
その方法は、家康が岡崎に入るときに
私が馬の前に立ち「家康さまお越しだ
門を開けよ、私は大賀弥四郎だ」門は開く。
差し向けてくださっていた2〜3人で
次郎三郎信康さまを討ち取れば
家康に付き従う者にたいした人物はいない、
いるとしても妻や子を岡崎に置いているので、
人質に取れば降参するでしょう。
そうすると家康に従う者は100騎ばかり
逃げ出したところを討てばよろしい』
と、勝頼に書状を差し上げると
勝頼はお喜びになり「この計画急げ」と馬を進めた。
共謀者の山田八蔵は
仲間となっているのは不都合だ、
仲間になるのはよそう、と、
家康さまにこのことを申し上げる。
ちょっと端折ってありますが、三河物語には
あらかたこんなことが書かれています。
5 勝頼さまの優秀な作戦
ではなぜこんな謀反が勃発したのか
このときの地勢を考慮しつつ話していきます。
このころ徳川家の惣領国つまり
遠江+三河エリアでの政務の中心は
遠江は浜松でこちらに家康さまが中心となり
政治の諸項目を決定していました。
そして三河にはまだ年少の家康さま長男の
信康さまを戴き家臣がサポートし、
三河領国の国務を執行していました。
浜松では🆚武田に対する外交は戦うことで
徳川惣領国(遠江+三河)を守っていこうという
方針でした。
そして三河もそれに従うはずでした。
武田家エリアと大きく面しているのは遠江であって
三河はその後ろに控えるエリアなので
🆚武田家はそれでよい、と
家康さまもお考えで、三河は遠江に従うのが
当然だと家康さまもアンシンし切っていたのでしょう。
そこに目をつけたのが武田勝頼さま❗️
勝頼さまは武田家を滅亡に追いやった武将と
思われがちで評価は低く
ドラマなどでもそう描かれることが多いですが、
それは運が悪くたまたま失敗が重なっただけで
知略のある優秀な方であった、というのが
近年での一般的な評価です。
武田惣領国の境界線は遠江とも大きく面していますが
それと同じくらい三河とも面しています。
家康さまは。武田家とは遠江で激突すると
信じ込んでいたのでしょう、素直な方ですから😂
そこを、わざわざ甲斐国から遠いほうの
三河を凋落しつつそちらに軍を進めるという
作戦を立てて実行していった武田勝頼さまは、
少しずつ三河との国境線をおびやかす
奥三河の武田惣領国との境界線の徳川方豪族の意見を🆚武田家主戦から武田家に従属するほうが安心という世論を作っていく
岡崎の内部に内通するもの(大賀弥四郎)を作り武田軍を手引きする
というなかなかよくできた作戦を
実行しつつあったのでした。
これからわかる通りこの戦国時代中期は
自分の惣国家辺境の豪族から信頼してもらい
いかに味方としてひきつけておくかが
自身の惣国家を守っていくための重要な要素である
ゆうんがわかるかと思います。
6 家康さまの対応
勝頼さまの失敗は、大賀弥四郎という人物が
さほど優秀な人物でなかった、ということかと思います。
人心を掌握していなかったのでしょう。
一味のはずであった山田八蔵さん
やはりこんなことしては自分のためにならない
と、早々に大賀弥四郎に加担することをやめて
家康さまに報告し、この大神弥四郎事件は
発覚します。
家康さまには珍しく
大賀弥四郎を極刑に処します。
この極刑の内容は三河物語に詳細が
名刻に記されていますが、
読んでみたところかなりエグい内容なので
興味があるなら読んでみてください。
ここではその極刑の意義だけ話しておきます。
家康さまは、20余郡の代官を任せ
引き立てていた大賀弥四郎に怒り爆発❗️というのが
正直なところの家康さまの思いかと推測しますが、
刑をどうするかにあたって、
武田軍が攻めてくる、武田に寝返る方がよい、
という意見が少なからずあったであろう、
三河は岡崎の家臣団にも、
徳川家の🆚武田の方向性はあくまで主戦である、
それは岡崎も従いなさい、
浜松と岡崎はこれまでも今後も一枚岩である、
と、大賀弥四郎を極刑のもって
内外に知らしめたんですわ。
そして、その数年後、しつこい武田勝頼さまは
家康さまのお身内を利用しようとするのでした。
家康さまあんまり素直に周りを信用したらあかんでー
😂
7 次回
武田勝頼さまは大賀弥四郎事件勃発時すでに
奥三河に迫っていて、長篠城(豊橋の手前)の
眼前に迫っていた❗️
家康さま、これはたまらん、と
戦国大名であるにも関わらず、
織田家と武田家の境界線の豪族と
自分を自覚し、織田家に援軍を求める。
長篠の戦が勃発します❗️
勝つのはわかってるんだけど、今後への
その影響はだいじょーぶなんやろか💦
相変わらず崖っぷちの家康さま😂
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