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徳川家康さま☘️をたどる#77☘️若き日を振り返る家康さま・そして大坂夏の陣へ

初筆 2024年 3月 15日 / 加筆修正 未
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無料で聞ける#徳川家康さまをたどる 77
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1 コンセプト

#徳川家康 さまはちょっと気の利く
フツーの人やってんやと仮定し
#家康 さまやその周囲の方々が
こんときはこー
あんときはあー
思ったんちゃうやろか、と、
いちおー書物や文献も引きつつも、
勝手に思いを巡らす
家康さまファンの思いを皆さまに届けます。
参考文献(一次資料)
#三河物語 / #大久保彦左衛門忠教 さま著
#信長公記 / #太田牛一 さま著

2 前回からのつなぎ

前回は以下を話しました❗️

  • 1614年・慶長19年12月20日、大坂冬の陣の和議締結。条件は、大坂城措置は、二の丸・三の丸の破却、惣構うち西・南・東堀の埋め立て。移封はなし。 #豊臣秀頼 さま・ #淀の方 さまの江戸下向不要、代わりに #大野治長 さま・ #織田有楽斎 さまのお身内を人質に出す。召し抱え浪人は不問。

  • 家康さまは冬場に大坂への長期逗留は避けたかった。大坂冬の陣の講和交渉では大坂城を攻めやすくできる条件が取れればそれでOKとお考えだった。

  • この時点での家康さまが江戸幕府か長期にわたる天下泰平を実現するために、豊臣家を滅ぼす必要あるかも、とお考えになり始めた。

  • 大坂を引き払い京都に入った家康さまは、公家衆・門跡の姿勢をさらに正していった💦その後、駿府にお帰りになられた


前回はこちら❗️
⬇️

3 大坂冬の陣後、上方から駿府に帰る行程を楽しむ家康さま

1614年・慶長20年の正月を、家康さまは
公家衆・門跡から、そして冬の陣、講和のなった
豊臣秀頼さまのご使者さまから、年賀の祝いを
受けたのち、駿府への帰途にお着きになりました。


駿府にご到着になられたのは、なんと2月14日❗️
1ヶ月以上かけて駿府にお帰りになった計算です。
帰途、家康さまは、京都を発ち、
膳所・水口・亀山・桑名、
そこから船で名古屋・岡崎と東海道を一宿ずつ
ご移動なさいました。
また岡崎では10日近くご逗留なさいました。

家康さまの足跡をたどるとき
政治や経済、軍事や文化に目が行きがちですが、
家康さまの個人的な気持ちに注目しても
よいのではないでしょうか❓

家康さまの元の所領は岡崎です。
19歳のときに今川家での人質生活から逃れ、
所領の岡崎で10年ほどを過ごした家康さま、
その当時は家康さまの3大危機の1ついわれる
#三河一向一揆 に巻き込まれました。
家臣も一向宗側と家康さま側に分かれて争った
一向宗門徒の一揆というより武装蜂起でした。

岡崎では当時の苦労なども思い出しつつ、
ごゆるりなさったのでしょう。

もしかしたら、亀山・桑名経由だったのも
家康さまの3大危機の別の1つの #伊賀越え
ルートを自らお辿りになったのかも知れません。

いずれにせよ、大坂冬の陣から駿府への帰途、
家康さまは急ぐことなく、これまで幾度となく
往復した上方から駿府をゆるりゆるりと
お帰りになりました。

いや、旅を楽しんでいるご様子でした。
懸案事項だった大坂城を丸裸の城にし
いつでも大坂方を潰せるようにできて、
人生の必須項目をあと少しで完成させられる
状況になり、上方から駿府の行程をお楽しみに
なられたんだと思います。
家康さま、ひとまずお疲れさまです🥰🙇‍♂️

4 駿府への帰途に仕事もなさる家康さま


上方から駿府への帰途、休暇的な家康さまですが、
社長に休みはありません。
家康さまは駿府への道中に
さまざまな報告やご挨拶をお受けになり、
また連絡事項をなさいました。

  •  #黒田長政 さまご嫡男の #黒田忠之 さま病中の大坂参陣への感状

  • 江田留守居役 #最上家親 さまへの感状

  •  #徳川秀忠 さまより大坂城・城割(破却・埋め立て)の進捗は2〜3日置きに報告あり。

  • 大坂城の城割は1615年・慶長20年1月23日に終了、その直前にに城割奉行の #安藤直次 さまがご到着・報告、2月1日には #本多正純 さまがご到着、大坂城・城割完了報告

  • 2月7日には家康さまに追いついた #徳川秀忠 さまとご対面。秀忠さまは江戸の帰途にお着きになりました。


そして、大坂冬の陣の2ヶ月後、
1615年・慶長20年2月14日に家康さまは
駿府にご到着なさいました。

5 禁中並公家諸法度の参考資料が届く

備前岡山の池田家に入っていた
家康さまの次女室良照院さま( #督姫 さま)が
お亡くなりになり、
家康さまは1615年・慶長20年2月14日
その逝去をお悼みになり、
外孫にあたる #池田忠継 さまを
池田家家臣によろしく頼みました。

駿府に下向した #金地院崇伝 さま・ #林道春 さまから
五山衆に提出依頼をしていた古い記録の
書き写しが終わった報告を受けられました。
これは折に触れ、門跡衆に乱れある時には
故事に倣わせていくための資料となります。

そして1615年・慶長15年3月20日、
駿府に下向なさった武家伝奏の
#広橋兼勝 さま・ #三条西実条 さまより
天子さまからの #祭事之書物 の各パートである

  • 摂家衆よりの勅答書物

  • 門跡衆よりの勅答書物

が金地院崇伝に読み上げられたのをお聞きになった
家康さまはコキゲンでした🤣
なぜなら、これは大坂冬の陣直後、天子さまに向けて
奏上しておいた朝廷の儀礼に関する
推奨事項の返答であり、
内容は禁裏儀式一覧というべきもので、
のちに制定される
#禁中並公家諸法度 の参考書物でした。

お聞きになった家康さまは、
金地院崇伝さま・ #京都所司代#板倉勝重 さま
経由で、武家伝奏のお2人から、朝廷・門跡へ
家康さま上洛時に諸家と相談して
法度を制定することをお伝えになりました。

6 対大坂

大坂冬の陣の講和条件をもって
豊臣家存続確定と大坂方は考えていたのでしょうか❓
家康さまはこれまでさんざん、
大坂方に豊臣家を長く存続させるための
条件を明示的にも暗示的にも伝えてきました。

また、それが秀頼さまに届くように
大坂の年寄衆とも言える、
徳川家との取次の #片桐且元 さまを重宝したり
関ヶ原の戦では徳川方だった #織田有楽斎 さまが
大坂城にいることを許可していたのでした、

秀頼さま・大坂方からは、
家康さまが駿府への帰途の中、
蒲団や絵枕などの健康を考慮した進物が届けられたり、
家康さま駿府ご到着後は
駿府下向した豊臣秀頼さまの使者に引見、
金襴10巻が進物として届けられました。
また、 #淀の方 さまの使者として駿府下向した
#常高院 さま・ #大蔵卿局 さまなどにも
引見なさいました。

こういった気の遣い方からは、
豊臣家は大坂冬の陣にて戦は収束、
無条件に豊臣家存続が成立している
という大坂方お考えだけしか見えてきません💦

しかし、家康さまこの時点でも
秀頼さまは国替か江戸下向するか
どちらかしか豊臣家の存続はない、でした。
秀頼さまを亡き者にしたくない、というお気持ちは
あったのだと考えられます。


家康さま駿府到着直後の
1615年・慶長20年2月26日、
大坂城の織田有楽斎さまより家康さまに
使者をもって大坂城を出たい、との要望が届きました。
有楽斎さまは自身が大坂にいても
もはや徳川家・豊臣家の関係調整は
できない、ムリ、との意思表示でした。

それに対する家康さまのご返答は
「志次第」つまり、思いのままにしてよい、
でした💦

家康さまは、3月14日奈良奉行・中坊秀政さまに
大坂城籠城の大和郡山衆の名簿に目を通したこと、
その残党の成敗を了承をお伝えになりました。

翌日3月15日、京都所司代・板倉勝重さまより
大坂方の不穏な動きの報告が駿府に届きます。
その内容は

  • 大坂城浪人衆の大坂市中における乱暴・狼藉

  • 大坂城の堀や城郭の復旧

  • 浪人衆による京や伏見への放火の風聞

などでした。

これを受けて家康さまは、大坂方に
浪人の解雇または豊臣家の移封を要求しました。
家康さまは秀頼さまに移封先を
大和(奈良県)か伊勢(三重県)と考えて
秀頼さまにお勧めになったようです。


この要求に対する大坂からの返答次第で
家康さまは大坂を再び攻めるつもりは
こうなってはもう明白かと思います。

また並行して、家康さまは
以下の開戦準備も始めました。

  • 4月1日、畿内の諸大名に大坂から脱出する浪人の捕縛を命じた

  •  #小笠原秀政 さまに伏見城の守備に向かわせた

  • 3月より大砲製造命令

  • 九男・ #徳川義直 さまの婚儀を理由として、家康さまは、スグに上洛できるように駿府から名古屋に向かった

そして大坂からの返答が来ました。

1615年・慶長20年4月5日、
大野治長さまよりの使者が家康さまの元に。
豊臣家移封に対しての返答は
「許してほしい」
対する家康さまは #常高院 さまを通して
「其の儀に於いては是非なき仕合せ」
つまり、そういうことならどうしようもない、
(ので大坂を攻めることとする)

7 大坂夏の陣に向けて

大坂冬の陣ののち
徳川方が、家康さまが、大坂を攻めるかどうかを
決めたのは大坂方の対応でした。
もし、秀頼さまが移封を受け入れていたなら
家康さまはそんなにも急な対大坂開戦は
しなかったはずです。
大坂夏の陣が1615年・慶長20年には
勃発しませんでした。

家康さまは、大坂と話し合ってみて、
解決するならそうしたはずです。
また大坂方に考える時間も与えたはずです。
また家康さまはこの時点でも
秀頼さまを亡き者にしようとお考えではない、
それゆえの話し合いだったのです。
しかし話し合いは徒労に終わりました。

家康さまは、
日本全国の諸大名に鳥羽・伏見への集結を
1615年・慶長20年4月6日から7日にかけて
お命じにになったのです。
このようにして大坂夏の陣は
始まって行ったのでした❗️💦

8 次回

秀頼さまの移封先を
大和または伊勢という信仰の土地とし
親切な提案をした家康さま💦
しかしその提案も虚しきこととなった今、

大坂との戦が再び始まるっ❗️💦💦

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