徳川家康さま☘️をたどる#10☘️家康さまの桶狭間#2
初筆 20210624 / 加筆修正 未
この記事は有料ですが、今とこは実質最後まで無料で読めます🤗
有料部分の文章は「ご覧いただきありがとうございました。」
のみですよ🤪✋
またこの記事の前半と同じ内容を音声で聞けます。
スタエフ配信:徳川家康さま☘️をたどる#10
⬇️
https://stand.fm/episodes/63a331f583332b0216acc230
1 コンセプト
いちおー書物や文献も引くのですが
徳川家康さまはちょっと気の利く
フツーの人やってんやと仮定し
家康さまやその周囲の方々が
こんときはこー
こんときはあー思ったんちゃうやろか、と、
勝手に思いを巡らす
家康さまファンの思いを皆さまに届けます。
2 前回
前回より、あの歴史的に有名な
桶狭間の戦のお話を始めました。
元康さま(家康さま)は桶狭間前日に
「大高城兵糧入れ」という今川家の
ミッションをこなしたというのが前回のお話でした。
また文献によると、その頃の元康さまは
今川家を見捨てていたのかも、と
推測できるような箇所もある
というとこまで述べました。
前回記事はコレですよ🤗
⬇️
3 桶狭間を今川義元さんサイドから見るポイント
さて今回は今川義元さんは、そもそも
●桶狭間時に何しに尾張まで来てたのか、
●義元さんはなぜ油断したのか
をお話ししていきます。
結論から先に話しておくと
(文献からは推測することしかできません)
義元さまは十分な戦果をお上げになり
あとはすす払い程度の作業を残すのみとお考えになり
後方基地にお帰りになるところを撃たれたと
推測できるのです。
4 今川義元さんの尾張侵攻の目的は何❓
この記事で真っ先に一次史料とする
大久保彦左衛門忠教さま著の三河物語によると
今川義元さんが兵を引き連れて
侵攻するコースやざっくり日程の記述
そしてそれに伴う先方の元康さまの動きの記述はありますが
目的および軍兵の数の記述はないです。
#信長公記 ( #太田牛一 さん著)には軍兵45,000とあります。
今川義元さん尾張侵攻はそのまま上洛目的の途中であった
という、一般的にそうだと思われている説は
江戸時代の編纂物の文献に初めて現れる。
三河物語・信長公記には書かれていない。
※編纂物は2次史料的扱いになる
大高城、鳴海城、沓掛城を今川家ものにしていたが
大高・鳴海を織田軍に包囲されてたという政治情勢からすると
今川義元さん尾張侵攻は以下のいずれかと思われる
・大高・鳴海の包囲を解くため
・南尾張制圧
・伊勢湾への制海権を再確立
・軍事的示威行為
いずれにせよ鳴海・大高周辺を制圧しようとしていた
今川軍にとって元康さまの「大高城兵糧入れ」は
かなり大切なミッションであった
⬇️
元康さまは今川家1武将として
かなり信頼されていたことがわかる
※もし義元さんが上洛目的なら
さして重要なミッションではない
5 今川さんはなぜ桶狭間で油断したのか❓
一般的に知られている京都方面に向う途中で
今川義元さんは撃たれたという説は
上記の説明でないことがわかりましたが、
織田軍方面に向かって侵攻しているとき
いくらなんでも今川義元さん油断するでしょうか
詳しい記述は省略しますが、
今川義元さんはけっこうできる武将ではありました。
三河物語に以下の記述あり
・義元さんは桶狭間前日に大高城に入った
・大高城近辺を包囲してる織田軍の丸根砦を元康さまが落とした
・丸根砦を守っていた織田方武将佐久間盛重さんは脱出できた
・今川別働隊が織田軍の鷲津砦も落とした
・これで鳴海城と大高城は今川エリアとしてつながった
・義元さん桶狭間当日に駿府よりの沓掛城へ一時退却しようとした
なぜか歴史で習わない箇所です。
それだけ戦功が上がっていたら南尾張は制圧したも同然
あとは細かいすす払いみたいな作業が残るだけ
⬇️
これが今川義元さんの油断の元では
なお三河物語によると桶狭間当日、
元康さまは大高城の留守居役を命ぜられていた。
また信長公記によると丸根砦の攻略に手を焼いたので
大高城にて人馬に休息を取らせていた、とあり。
「もし元康どの尻払いなさらば大事には至らず」
の記述も三河物語にはある。
6 さて今回も疑問が残ります。
・元康さまが攻め落とした丸根砦を守っていた
佐久間盛重さまはなぜ生きて脱出できたのか
・元康さまが大高城居留守となった本当の理由が不明
(三河物語には「元康を置け」という軍議記述あり)
・信長公記天理本(信長公記別バージョン)に記述のある
正光寺砦が落ちたかは不明
その他元康さん腹黒説の状況証拠はまた後の記事にて❣️
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