徳川家康さま☘️をたどる#55☘️唐入りの始まりと家康さま
初筆 2023年 10月 6日 / 加筆修正 未
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無料で聞ける: #徳川家康さまをたどる #55
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1 コンセプト
#徳川家康 さまはちょっと気の利く
フツーの人やってんやと仮定し
家康さまやその周囲の方々が
こんときはこー
あんときはあー
思ったんちゃうやろか、と、
いちおー書物や文献も引きつつも、
勝手に思いを巡らす
家康さまファンの思いを皆さまに届けます。
参考文献(一次資料)
# 三河物語 / #大久保彦左衛門忠教 さま著
# 信長公記 / #太田牛一 さま著
2 前回からのつなぎ
前回は以下を話しました❗️
家康さま関東移封にあたって居城を江戸と定めたのは、秀吉さまの意向、すなわち中央政権の関東奥両国惣無事の事業の支部として
家康さま関東での直轄地は武蔵南部・相模北東部に加えて飛地で伊豆。
直轄地内の周辺には4男松平忠吉さま・5男武田信吉さまなど有力親族を配置
直轄地の外周には本多忠勝さま・榊原康政さま・井伊直政さま・大久保忠世さま・鳥居元忠さまなど重臣を配置
⬇️前回はこちら❗️
3 天下一統下での家康さま
中央政権である #豊臣政権 は #関東奥両国惣無事 の
安定をもって天下一統を成しました。
各大名は中央政権の政治的・軍事的な保護のもと
経済的には中央政権に負荷をかけられつつ、
自治運営が保証される仕組みで、
中央政権は日本惣国家を統治するに至りました。
この仕組みは基本的には江戸時代も同じ統治です。
家康さまはこの統治方法の中で
政治家として上方に居住することになります。
徳川関東惣領国の仕置き後、家康さまは
たびたび上洛、次章で話す唐入りの備前名護屋滞在を
はさみつつ、京都や伏見に長期滞在、
#江戸大納言 として自身の大大名としての
権威を保ちつつ、中央政権執政官の一員として、
中央政権の要件を1つ1つ学んでいきます。
4 この頃の豊臣家
1591年・天正19年2月、
秀吉さまの弟・大和大納言 #羽柴秀長 さまが
お亡くなりになります。
秀良さまは名補佐役、
秀吉さまが事業を立ち上げるときの
たいていは予算の捻出を行っていました。
予算だけでなく、人・モノ・情報のリソースも
調達していました😉🤚
また程よい情報提供を周囲に行い、
秀吉さまの事業が円滑に不満なく実施されるよう
手配していたのも秀長さま😉
秀吉さまが天下一統できたのは
秀長さまあってこそのことでした。
1591年・天正19年8月、 #羽柴秀吉 さまのご子息
鶴松さまは数え4歳でお亡くなりになってしまいます。
もう子供は望めまい、とお考えになった
秀吉さまは、1591年・天正19年12月、
#関白 職と豊臣家家督を #羽柴秀次 さまに
お譲りになり、秀次さまは
京・ #聚楽第 にお入りになります。
そして秀吉さまは #太閤 (前関白の称号)となり、
しかし政治的な実権はいまだ太閤秀吉さまに
ありました。
そんな折、明けて1592年・天正20年には
(1592年は12月8日より文禄元年)
秀吉さまは唐入りを実行なさいます。
唐入り、とは #文禄慶長の役 、あるいは、
#朝鮮出兵 のことです。
5 秀吉さま外交と唐入りへの道
結論から言うと
秀吉さまは唐入りを達成できませんでした。
秀吉さまは日本国惣無事をなすかなり前から
唐入りをお考えだったとは、さまざまな
一次史料文献に書かれていることです。
秀吉さまは何がしたかったのか❓
秀吉さまが政治的・軍事的に一統した日本という国を
東アジアという国際社会にどう位置付けるか、
を考えるとき、
日本は他の国に隷属しない独立国家であると
お感じになっていたのは当然のこと、
1587年・天正15年ごろにはすでに
東アジア・東南アジア諸国と外交を始めていました。
その当初、秀吉さまは明国を日本と対等の
横並びの国家と考えて、外交・交易をスタート
させました。
またその他、明国以外の国々には、
隷属を求め、応じないときには、
誅伐を宣告する、という外交基本方針でした。
しかし外交を重ねていく過程で、
明国はじりじり弱体化している途中で
もはや明国の大中華支配は当時解体状態で、
あるいは #ポルトガル や #スペイン が徐々に
明国を支配下に置く策略を巡らせている
ということがわかってきます。
ここで秀吉さまは東アジア秩序再建の
必要性をお感じになり、明国に代わり
東アジアをおまとめになろうと唐入り事業を
立ち上げたのです。
6 唐入りその他の理由
と、述べてきたのが、秀吉さま主観でみた
表向き・オフィシャルな唐入りの動機付です💦
秀吉さまが唐入りを行った本当の動機は
昔から諸説あるものの確定には至っていません。
というよりも、秀吉さまに唐入り決断をさせた
理由は1つではなくて、様々な理由が
積み重なっていると考えてよいかと思います。
その様々な理由を挙げていきます。
ご子息の鶴松さまが夭折したことのウサ晴らし。気持ち的にあったとしても秀吉さま公言はできないでしょう💦なお唐入りプランはそれより前からありました🤚
唐入りという偉業を成し遂げて名を残したいとあう秀吉さまの功名心、少なからずお待ちだったことでしょう。日本一統をなした秀吉さまが、東アジア地域を一統方向に向かうのは必然、とも言い換えられます。
戦国時代が終焉に向かい、日本国内で肥大化した各大名の軍事力をダウンサイジングするため。しかし、これは唐入りにてダメージを受けること前提で、説に留まります💦
あるいは肥大した軍事力の中に含まれている兵士は日本一統の過程で在地性を失い(兼業農家ではなくなっている)専業兵士となっているため、豊臣政権を現状構造のまま維持するためには常に戦闘状態を維持する必要があった。
日本国内の領地だけでは軍功を上げた諸将への俸禄が不足してきたため。戦国時代が終焉するにつれ、大名の領国が固定されてきて、日本国内では浮いている土地がわずかになっていた。これは秀吉さまお考えになっていたと思います。
単純に国内一統の延長として朝鮮に、地位保全を前提とした服属儀礼を求めたが従わないため。
ポルトガル・スペインが日本を直接植民地にするための兵力が不足していて、いったん弱体化している明国を統治下に治めて、明軍を使って日本に攻め込むというウワサが流れ、それに対して先手を打つため
7 家康さま肥前名護屋へ
1592年・天正20年(12月8日より文禄元年)に
秀吉さまは、西国大名の唐入り渡海計画を策定、
諸大名に備前国名護屋(佐賀県唐津市)への
参陣をお命じになりました。
家康さまも1592年2月2日には江戸を出発、
2月24日に上洛、3月17日には、
肥前名護屋に向けて出発。
関東奧両国惣無事担当の家康さまは
陸奥南部信直さま・陸奥伊達政宗さま・
越後上杉景勝さま・常陸佐竹義宣さまらを
従えた形で、と言うかたまたま同じタイミングで
肥前名護屋にお向かいになったとのこと。
この辺り家康さま総大将と見間違えられて
家康さまの勢威がウワサとなるように
うまーくやったのかもです❗️🤣🤚
江戸の開発も同時進行でしたが、留守居を
3男 #松平秀忠 さま、そして補佐を、
#井伊直政 さま・ #榊原康政 さまに任せました。
なお、1592年・天正20年、秀忠さまは官位官職を
従三位権中納言まで進めました。
家康さま1592年・天正20年4月末には
肥前名護屋に到着。
在陣した徳川軍の軍勢数は1万5千❗️
人数だけでなく、勇猛さ・規律正しさも相まって
他の大名の軍勢を圧倒していたとのこと☺️
陣所は秀吉さま御座所から離れたところに
布陣なさいましたが、秀吉さまの命で
家康さまは、秀吉さま御座所近辺に配置されました。
秀吉さまは家康さまり何かと相談事があったのかと
思われます。
8 文禄の役が始まった
秀吉さまは、対馬の宗氏経由で朝鮮国に、
日本の天下一統を祝う通信使の派遣依頼し実現、
引見した秀吉さまは朝鮮国が日本に服属する意を
示したものと思われて、
朝鮮国に対して、明国支配への先導を命じました。
しかし、朝鮮は服従などしたつもりもなく、また、
当時、朝鮮交易で藩の財政をまかなっていた宗氏は
仕入先・得意先の朝鮮に気を遣い、
明国へ攻め入る道を借りるだけの依頼に
すり替えて朝鮮国に伝えましたが、
これさえ朝鮮は拒否❗️そればかりか
明国に日本の動向をチクりました🤣💦💦
日本での暗黙の了解が世界では通じないための
誤解が生じてることをイケイケ秀吉さまは
お気づきにならず、従来のそれをアドバイスしていた
秀長さまがお亡くなりになってたことも
この後、秀吉さまが様々な事柄を思い込みだけで
進めてしまう要因になってたのです💦💦
文禄の役が始まらななわけがないーー🤣💦🤚🤚
9 次回
秀吉さま唐入りうち文禄の役が始まり
日本の西国大名から順に朝鮮半島へ軍を
投入されていくーー💦💦
家康さまは国内前線基地の肥前名護屋で
どうお振る舞いになったのかー❓
徳川軍1万5千の戦闘やいかにーー❓💦💦
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