徳川家康さま☘️をたどる#13☘️家康さまの桶狭間#5
初筆 20210801 / 加筆修正 未
この記事は有料ですが、今とこは実質最後まで無料で読めます🤗
有料部分の文章は「ご覧いただきありがとうございました。」
のみですよ🤪✋
またこの記事の前半と同じ内容を音声で聞けます。
スタエフ配信:徳川家康さま☘️をたどる#13
⬇️
https://stand.fm/episodes/63a641c1c00cb0250530eb98
1 コンセプト
いちおー書物や文献も引くのですが
徳川家康さまはちょっと気の利く
フツーの人やってんやと仮定し
家康さまやその周囲の方々が
こんときはこー
こんときはあー思ったんちゃうやろか、と、
勝手に思いを巡らす
家康さまファンの思いを皆さまに届けます。
2 前回
前回は徳川家康さんのお話しではなくて
織田信長さん視点で、桶狭間の戦の
プランニング・ディレクション、つまり
・信長さんけっこう情報収集をしてた
・今川家の動きを信長さん知ってた
・今川義元さんが油断するように信長さんが仕組んだ
を、三河物語と信長公記から読み取りました
前回記事はコレですよ🤗
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3 今回は
さて今回は再び徳川家康さま
当時のお名前は元康さま視点の話に戻します😀
今回は
【1】元康さま桶狭間直後から今川家との主従関係を見直し
織田・松平同盟結成にいたるまでの
一般的に知られているストーリーを話します。
【2】実は元康さま、桶狭間直前か桶狭間中に
織田家側に寝返ってたかも、説まとめ
4 桶狭間直後の元康さまの一般的なストーリー
元康さま桶狭間直後の大高城脱出から
今川家との主従関係を見直し
織田・松平同盟結成にいたるまでの一般的なストーリー
⚫︎元康さま桶狭間の戦で今川義元さん討死の噂を聞く
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「義元公討死せしとも確かな下知なくば
大高城を離れるまじ。
討死が偽りならば(義元公に)合わせる顔のなき」
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水野信元さん(元康さまの伯父さんで織田方)が使者を
「義元公、討死、逃げられよ」
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水野信元さん家中の手配で大高城脱出
※三河物語に掲載あり
⚫︎元康さまご一行
岡崎城まで目と鼻の先の大樹寺まで逃げてきて
今川義元さん亡くなったのに絶望して
自害しようとした、が、
大樹寺13代住職登誉上人に
「欣求浄土厭離穢土(乱世を住みよい世の中にする)」のが
おまえの役目と諭されて一念発起
またこのタイミングで駿河衆(岡崎城代の今川家臣)は
岡崎城を放棄、元康さまは大樹寺の兵に助けられ
空き城の岡崎城に帰還した。
※大樹寺13代住職登誉上人に諭された件りは一次資料に掲載なし
※駿河衆の岡崎城を放棄は三河物語に掲載あり
桶狭間後、元康さま駿府には戻らなかった
しかしこの時点で元康さまは今川家家来衆
⚫︎西三河地区は織田家に攻め取られていくが
元康さまは織田軍と一進一退の攻防を繰り返す。
※三河物語に掲載あり(詳細省略)
⚫︎今川氏は西三河に兵を派遣できない状況
⚫︎松平領国保全のための今川家との従属関係見直し
この2項目は一般的に言われていることで一次史料に詳細記述なし
⚫︎そのうち織田信長さんと同盟を結ぶ
※時期はいろんな説あり
・桶狭間の約9ヶ月後、水野信元さん(元康さま母方の兄)を通して
・桶狭間の約3年後、嫡子信康さんと信長さんの娘徳姫の婚約時
なお水野信元さんはキーパーソンです。
織田家・松平家と並ぶ愛知県の大名であり(24万石とも)
織田家に与する独立国衆であり、松平宗家の伯父。
つまり水野信元さん尾張・三河両国に影響力大
元康さま桶狭間後は一般的にはだいたいこんなストーリーです。
5 元康さま織田家に寝返ってたかも説まとめ
実は元康さま、桶狭間直前か桶狭間中に
織田家側に寝返ってたかも、説をまとめます。
■動機
⚫︎今川家での師匠と言われてる
今川家No.2の大原雪斎さまは5年前に亡くなっていた
⚫︎今川家で出世していくには
まだまた時間がかかりそう
(大企業で出世コースに乗るイメージ)
⚫︎三河在住の元康さまの家臣は
今川家支配下の三河でみな苦労している
のでできれば三河国衆として独立したい
現代で言うたら尊敬する先輩が退社し
会社での出世は時間がかかりそうなので
独立したい、そのほうが報酬上がる、みたいなところか
■元康様・織田家内通を推測できる記述や言い伝え
⚫︎直前元康さまは松平家に離縁されていた
お母さんに会いにいってるという話が一般的に言われることあり
お母さんは水野元信さんの妹である
お母さんに織田家に付くよう説得された可能性はある
⬇️
一次資料に記述なし
「東照宮御実記」(19世紀前半の編纂:二次史料)には掲載あり
⚫︎そもそも大高城やら桶狭間のあたりは
水野信元さんの土地であった
知多郡・知多半島全体
⬇️
伯父さんの水野信元さん会おうと思えばすぐ会える
水野信元さんに織田家に付くよう説得された可能性はある
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一次資料に記述なし
⚫︎大高城兵糧入れの時
大高城へ街道に設置された
織田方の丸根砦・正光寺砦は元康さまと戦闘記録なし
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三河物語・信長公記とも戦闘の記録なし
⚫︎大高城兵糧入れの時
大高城へ街道に設置された
織田方の正光寺砦は元康さまと戦闘記録なし
⬇️
三河物語・信長公記とも正光寺砦自体の記録なし
信長公記天理本に正光寺砦があり
水野元信さんまたはその配下が
正光寺砦に居たことは記録あり。
戦闘記録はなし
⚫︎大高城は今川家のvs織田家最前線そこから
今川軍壊滅状態なのに大高城を脱出できた。
逃げる段取りをつけたのは水野元信
⬇️
・三河物語に記述あり
元康さま、桶狭間直前または桶狭間中に
織田家と内通してるかもの状況証拠を
いろいろ読み取ろうとしましたが、
状況証拠に過ぎない。
もちろん内通の記述はどこにもありません。
しかし、もしその時点で内通があったとして
公的な天下人となった家康さまストーリーとしては
オフィシャル本には書けない裏切り行為ではあります。
もし内通があったんだとしても
闇から闇に葬りさられたストーリーでしょうなぁ
6 次回
元康さまが織田家と内通してないくて
一般的に語られている
桶狭間後、岡崎城まで目と鼻の先
松平家の菩提寺の大樹寺まで逃げてきて
いったんは自害を決意したものの
再起に向かうストーリーをお話しいたします。
家康さま旗印の
「欣求浄土厭離穢土」は
このときできたんですよっ❗️
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