徳川家康さま☘️をたどる#16☘️ after 桶狭間
初筆 2023年 1月 6日 / 加筆修正 未
この記事は有料ですが、
今とこは実質最後まで無料で読めます🤗
有料部分の文章は
「ご覧いただきありがとうございました。」
のみですよ☺️✋
またこの記事の前半と同じ内容を音声で聞けます。
スタエフ配信:徳川家康さま☘️をたどる#16
⬇️
https://stand.fm/episodes/63ba9d76efebca69204a1a31
1 コンセプト
徳川家康さまはちょっと気の利く
フツーの人やってんやと仮定し
家康さまやその周囲の方々が
こんときはこー
こんときはあー思ったんちゃうやろか、と、
いちおー書物や文献も引きつつも、
勝手に思いを巡らす
家康さまファンの思いを皆さまに届けます。
2 前回からのつなぎ
今回からしばらくの間は、桶狭間の戦から
岡崎城に逃げ帰ることのできた元康さまの
今後のご自身の方向性、すなわち
城持ちだが大名ほどではない国衆(元康さま)が
・今川方の武将のままやっていくのか
・織田方につくのか
・また独立→大名化するのか
を決める過程を史実を時系列に語りつつ、
元康さまの気持ちをたどりたいと思います。
その前にまず前回のおさらい
元康さま桶狭間から岡崎への帰還時に
大樹寺にて織田軍に取り囲まれ
もはやこれまで❗️と自害しようとしたときに
大樹寺13代住職登誉上人が元康さまを
諭すように言葉をおかけになられた。
そして元康さまは感銘を受け一念発起してもーて
自分の役割は
・戦乱で乱れた世の中を救い
・平和の時代を作ること
「厭離穢土、欣求浄土」
と思い込み😂、いや、悟って
自害しようとしていた気持ちは
どこへやら、盛り上がってしまい
いやー若者は盛り上がりやすいっ😂
織田軍を蹴散らし(一次史料に戦闘記録なし)
岡崎城へと帰還した。
大樹寺に残っている模様の
登誉上人と元康さまの問答記録を
大樹寺責任役員の成田敏圀さまがお話しなさった説話PDFが
岡崎商工会議所サイトに保存されています。
「厭離穢土 欣求浄土〜家康公の平和思想〜」
前回はそこを詳しく述べました。
⬇️
http://www.okazakicci.or.jp/konwakai/18okazakigaku/18-6.pdf
前回記事はコチラ
⬇️
3 今回、この時点での元康さまの認識
さて、桶狭間ショックで今川家の目付が
這々の体で逃げ去ったあとの岡崎城に
お入りになった元康さま。
今川方の1武将としてけっこう
デキるヤツになってきてた元康さま、
そして今川義元さんの西三河遠征に
参加していた元康さま、
自分のボスがまさかの戦死💦
フツーに考えてみてください。
ボス(今川義元さん)が亡くなったら、
若旦那(今川氏真さん)中心として
やっていくであろう今川家、
って思いますよね。
その今川家で教育を受け
1武将として重宝されつつあった
元康さまが、果たして
一瞬にして、🆗❗️独立だぜ❗️と
気持ちを入れ替えられるでしょうか❓
さらに元康さまご自身の妻子
築山殿(奥さん)と第一子信康さま
は今川家にいる、これ客観的に見ると
人質状態なのですが、このとき
元康さまはそう感じてなかったと
思います。だってご自身は
「今川家の若手、デキるヤツ」と
思ってるから。
読者・リスナーである私たちが
この段階ではもう織田家だろう❗️と考えるのは
後世の歴史的事実を私たちが知ってるからです。
この時点では元康さま、
そんな考えは露ほども思わない。
4 とりあえず今川方として周囲を攻める
桶狭間時に織田方と連合している
水野信元さま(元康さまの生母の兄)からの
使者によって、今川義元さまが首を取られた
ことを知り、大高城を脱出できたことを
忘れきって(ね、この時点で
織田信長さまの戦略を見抜くべきだった
かもですが、やっぱり今川家に洗脳されて
いたんですね、元康さま)
今川方として織田家に従属している
ほうぼうの城に攻めかかります。
挙母(ころも)、梅ヶ坪、広瀬、
沓掛(くつかけ)、小河、刈谷、永沢、
西尾、東条などの織田方に従属している
エリア・城へ、月に3回から5回は
攻め出したと三河物語にはあります。
三河物語のテキトーなとこなのですが
上記の土地での戦の詳細記述のあと、
いきなり
「そののち信長と和議を結び、これらの
城々とは戦いはなかった(しなくなった)」
との記述がありますが、そのときの
元康さまの心持ちや家臣団の気持ちが
知りたいのっ❗️
推して知るべし、ということか。
ちなみに、何回か前に、
⚫︎桶狭間時に元康さまは水野信元さま経由で
織田信長さまと内通していたのかも説
も挙げましたが、これまで述べてきた
戦闘状況を考えると、それは都市伝説レベルの
お話なのかも知れませんね。知らんけど
5 織田方との戦闘状況と今川家の対応
上記の織田方との戦闘は
三河物語では、
実際、敵は誰々が戦死、味方は誰々
誰と誰が一騎打ちをした、
敵の城に火をかけたなど具体的に
元康さまは織田軍勢に
対して「奮闘した」という記述があります。
しかし、今川氏真さまは
相模後北条氏、甲斐武田氏の
駿河侵攻に対応するのがいっぱいで
義元さまご健在のときのように
上記の戦闘エリア・西三河地区まで
兵を差し向け、惣国保全ができなくて
元康さまは今川方として織田軍勢と
善戦するもジリジリ西三河は
織田方の惣国に吸収されていきます。
さすがに元康さまもこの辺りで
「これこのまま今川方でいると
今川本体は三河のヘルプなんか
できそーにない状態なんじゃね?
やべーかも」
みたく思われたことでしょう。
それと並行して
元康さまが今川義元さま
ご健在のころに、元康さま領国の
岡崎は今川家に搾取されている
状態で、
それを岡崎衆は
駿府の元康さまが不自由な
立場になってはいけないと、
ガマンしていた、みたいな
家臣団の過去の屈辱みたいな
ことも今後の元康さまの
気持ちを動かしていく
1つの動機になっていくのかも。
6 次回
さて対織田軍勢の戦、
奮闘しながらもジリジリ
織田方に西三河を制圧され
今川本体のサポートも期待できない
状態の元康さま・岡崎衆
元康さまはここをどう切り抜けるのかっ❓
やべーと思ってるならさっさと動けよ
私たちは思うものの、元康さま
早くしろよー、もうじれったいっ❗️❗️
お楽しみにっ❗️❗
ここから先は
¥ 100
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?