ゴールデン街酔夢譚~第三話~
24年前の藤堂課長の激で、僕は現代の新宿に帰ってきた。23歳、証券会社の新人の僕ではなく、47歳、証券会社を早期退職し、店にも入れてもらえずに、新宿ゴールデン街を彷徨う僕。
目の前に、一軒の灯りが見えた。小さなガラス窓から店内が見える。中にはショートカットの女性店員がいて、カウンターの向こうの男性と何やら楽し気に語らっている。扉には、「嘉門」とあった。ダメもとだ。僕は嘉門の扉に手をかける。ちょうつがいの軋む音。
「いらっしゃいませ、初めての方ですか?」と僕の顔を見た店員女性。
「そうです、入れますか」
僕の声に間髪入れず、
「だめだめ!ここは会員制なんだ。一見の客なんて入れないよ」
カウンターに唯一いた客である男性が、けんもほろろの物言いをかましてきた。僕は一瞬鼻白んだが、
「もう、ヒガシさんたら、お客さんを入れるかどうか決めるのは、わたしなんだから」
「ユミ、こんな時期なんだから、誰でも彼でも店に入れるもんじゃないんだよ。トラブルになったらどうするんだ」
ヒガシさんと言われた男性、年のころは僕とそう変わらないようだが、僕の方を見ようともせず、憮然とした表情を浮かべている。窓の外から見た笑顔とはえらい違いだ。
「トラブルになったら?そしたら、ヒガシさんが守ってくれるんでしょ?」
店員女性は、そう言って、いたずらっぽい笑みを浮かべて見せた。言い返せず、仏頂面を崩そうとしないヒガシさん。
「ヒガシさんも文句ないようだし、もしよかったら、一杯飲んでいってくださいね」
「ありがとうございます」
僕は、ヒガシさんから2席ほど離れたカウンターの椅子に腰かけ、店内を見回す。なんだかんだ言っても、ゴールデン街で初めて入った店なのだ。
カウンターで8席くらいのみの狭い店内。ユミさんと呼ばれた女性店員の後ろには、焼酎やらウイスキーやらの瓶が整然と並んでいる。カウンターには、何かを漬けたお酒だろうか、いくつかの見慣れない酒の瓶もある。
以後、ゴールデン街の様々な店に顔を出すことになるが、それらと比べて、嘉門は、平均的な佇まいと言ってよかった。
「うちは、チャージが1000円で、飲み物が700円くらいからです。チャージには、ちょっとしたお通しがついてきます。いいですか」
「は、はい」ユミさんの説明で我に帰り、こくこくと人形のように頷いてしまう。
「緊張しなくていいんですよ、うちはぼったくりじゃないので。伝票に書くから、お名前、教えてください」
「蟹江です」
「あら、本名ですか」
「本名です」
後に知ったのだが、ゴールデン街は、自分に綽名をつけて、あるいは、他人からつけられた綽名を名乗って飲み歩く人も少なくないそうだ。ワオタクさん、タイちゃん、やっくん、隊長、白湯ちゃん、デモやんなど、綽名で飲む人たちと、今後かなりの頻度で遭遇することになる。
「ご注文は何にします?」
棚の酒瓶を見回した僕は、ジャックダニエルのソーダ割を頼んだ。お通しに出た湯気立つお椀には、白菜とベーコンのスープ。ジャックソーダとスープを交互に飲み、一心地つく。ようやくゴールデン街の店に入れた安心感が、大きなため息になって流れた。
「スープ、美味しいです」
「良かった、お口にあって」
ここではじめてユミさんをまじまじ見る。20代後半くらいだろうか。背が高くスレンダーだが、出るとこは出ている。切れ長の目はどこか猫を思わせる感じで、口元に小さなほくろがあり、表情は何とはなしに蠱惑的だ。どこがどうとははっきりわからないが、離婚した元妻に、空気感が似てなくもない。
「おい、あんた、ユミのことを見過ぎなんだよ」
ヒガシさんが割って入る。「すいません」という僕の声に反応することも無くユミさんに話しかける。僕にかける声とあまりにもトーンが違うのは仕方ない。
「ところでユミ、こないだ一人で行ったイタリアンなんだけどさ、パスタが結構美味しくて。今度、ぜひ連れていきたいんだけど、どう」
「うーん、最近昼の仕事が忙しくて、なかなか時間取れないんだよね。来月くらいで、都合のいい日程いくつか教えてくれたら、調整できるかも」
「そう言って、ユミ、いつも全然付き合ってくんないじゃーん」
中年男性の駄々を見かねて思わず苦笑してしまう。ユミさんの困惑交じりの愛想笑いと思わず目が合った。
「はいはい、ヒガシさん、とりあえず日程の連絡待ってるわね。ところで、蟹江さん、ですよね?そもそも何でこの店にきたんですか?お住まい、近いんですか?」
「ええ、実は、ここから歩いて5分くらいのマンションに引っ越してきて住んでいるんです」
「そうなの」
「だいたい、あんた、この辺じゃ見慣れないけど、そもそも何者なんだよ」
会話に入りたいらしいヒガシさんも参戦し、僕の身上調査が始まった。元より、僕は自分のことを隠すつもりも無い。
「実は、証券会社に勤めていたんですけど、今、無職でして。小説家になろうと思ってるんです」
ヒガシさんとユミさんが、一瞬顔を見合わせ、そして奇妙なものを見る目でこちらを見る。そりゃそうだ。小説家を目指す無職の中年男性など、珍しいに違いない。僕は、証券会社時代のことから、二人に話し出した。