『嘔吐』を読む(24)──水曜日(2)「田舎のヒューマニスト」
ロカンタンは独学者に冷たく向かい合う。
「独学者」 l'Autodidacte とはロカンタンの付けたあだ名で、地方都市の図書館常連で一風変わった読書家の好人物だが、孤独で陰がある男性でもある。
ロカンタンは、自分を昼食に誘った独学者がレストランの割引回数券をいじましく財布から取り出すのを見逃さず、さらに、ランチの選択メニューで、わざと追加料金のある高い方の料理をこちらにあてがおうとする好意を冷たく見据えるのである。
《独学者は無邪気な笑いを浮かべる。太陽がまばらな彼の髪のなかでちらちらしている。
「召し上がるものをお選び下さい」
彼はメニューを差し出す。私は前菜を一つ選ぶ権利がある。輪切りにしたソーセージ五枚か、ラディッシュか、小えびか、あるいはオードブル用の皿に盛ったセロリのレムラードソースあえだ。ブルゴーニュの蝸牛には割り増し料金がつく。
「ソーセージを下さい」と私はウェイトレスに言う。
独学者はメニューを私の手から引ったくる。
「もっといいものはありませんか? ほら、ブルゴーニュの蝸牛がある」
「蝸牛はあまり好きじゃないのでね」
「そうですか! それじゃ牡蠣は?」
「それは四フラン追加になります」とウェイトレスが言う。
「そんなら牡蠣だ──そうしてぼくにはラディッシュ」
そして顔を赤らめながら説明する。
「ラディッシュがとても好きなものですから」
私もだ。
「で、おあとは?」と彼は訊ねる。
私は肉のリストに目を走らせる。牛のワイン蒸しが美味しそうだ。しかし私はあらかじめ、若鶏のシャスール風を食べることになるのを知っている。これだけが肉料理のなかで追加料金つきなのだ。
「こちらのかたには若鶏のシャスール風を差し上げて下さい」と独学者はウェイトレスに言う、「ぼくには牛のワイン蒸しだ」
彼はメニューを裏返す。ワインのリストは裏面にある。
「ワインを飲みましょう」と彼は、いくらか改まった顔で言う。
「まあ珍しい!」とウェイトレスが言う、「いつもはけっしてお飲みにならないのに」
「なに、場合によるよ。ぼくだってワインの一杯くらい平気さ。アンジューのロゼワインをカラフで持ってきてくれますか?」》
よく分かるではないか。このおじさんは、中央の知識人たるロカンタンと近づきになる喜びに胸をふるわせているのだ。ロカンタン=「私」のしらけ振りが伝わってくる場面である。ユーモラスで皮肉な個所に過ぎないと見るには、独学者の善意とのギャップがいささかあり過ぎるだろう。また、他の客たちに対するまなざしと比べても、独学者に対するそれは厳しいものと見えるのだ。今朝は、そんな独学者とでも話すことを「幸福」だと感じていたというのにである。
《彼はいかにも親しげな顔で言う、「こんなふうに、ときどきくつろいでお話できるというのは、なんて楽しいことなんでしょう」
この間の抜けた台詞は、案の定、私たちのだらけた会話を踏みにじる。あとには長い沈黙が続く。》
われわれもまた、馬が合わない誰かを心中で毛嫌いし、こき下ろすこともある。自分にすり寄り、へつらおうとする相手の卑屈さが腹立たしい、というロカンタンの気持ちも分からなくはない。だが、さらにその先があるのだ。
ロカンタンは、そのレストランの客たち、セールスマンや老紳士、親し気な若いカップルなどに目をやり、それぞれに理解を示しながらも、彼らの生の無意味さを思うのである。
《私は店のなかを見回す。なんという茶番だろう! この連中はみな真面目な顔をして座って食べている。いや、食べているのではない。彼らは自分に課せられた仕事を立派に遂行するために、体力を回復しているのだ。各人がささやかな個人的こだわりを持っており、それに妨げられて、自分が存在していることに気づかない。自分が誰かのために、または何かのために不可欠である、と思っていない者は一人もいない。》
周囲の人間の愚かさを見てロカンタンは思わず笑い出し、独学者に問われて答えるのだ。
《「私たちはみんなここにいるかぎり、自分の貴重な存在を維持するために食べたり飲んだりしているけれども、実は存在する理由など何もない、何一つない、何一つないんです」
独学者は深刻な顔つきになって、私の言うことを理解しようと努力している。私はあまり大きな声で笑いすぎた。いくつもの頭が私の方へ振り返るのを見たからだ。それに、ここまで言ってしまったことが悔やまれる。結局のところ、これは誰にも関係がないのだ。》
独学者はロカンタンの暴言を真面目に受け止め、反論を試みる。
《彼はゆっくりと繰り返す。
「存在する理由など何もない……。おそらく、人生には目的がない、とおっしゃりたいのでしょうか? これはいわゆる厭世主義(ペシミズム)ではありませんか?」
彼はなおしばらく考えてから、静かに言う。
「数年前に、あるアメリカ人の著者が書いた本を読みましたが、それは『人生は生きるに値するか?』というのです。あなたがご自分に課されている問題はこれではありませんか?」
もちろん違う。私が自分に課している問題はそのことではない。しかし、何も説明する気にならない。
「著者の結論はですね」と独学者は慰めるような口調で言う、「意志的な楽観主義に賛同するものでした。人生は、それに意味を与えようとすれば意味がある。まず行動し、一つの企てのなかに身を投じなければならない。しかる後に反省すれば、すでに賽は投げられており、人は束縛(アンガジェ)されている、というのです。あなたがこれについて、どう考えられるかは分かりませんが」
「べつに何も」と私は言う。
というよりもむしろ、それはまさしくあのセールスマンや、二人の若者や、白髪の男性が、絶えず自分に対してついている類の噓であると私は考える。》
これはどうだろう。
「人生は、それに意味を与えようとすれば意味がある。まず行動し、一つの企てのなかに身を投じなければならない。しかる後に反省すれば、すでに賽は投げられており、人は束縛(アンガジェ)されている」とは、まさに実存主義者サルトルの文句そのもののようではないか。だが、それは「嘘」le mensonge だ、とロカンタンは考えるのだ。
むろん、『嘔吐』執筆時にはサルトルの思想はまだ仕上がっていなかったのであり、また、この文章はここで、独学者によって、人間の生には意味があってしかるべきだと主張するために持ち出されているので、サルトルの生の無意味を見据えた実存的人間観による“ヒューマニズム”とは異なるのだ、といった説明も可能だろう。だが、そんな概括的な理解で十分なのだろうか。
「ヒューマニズム」はさらにやっかいなものとしてロカンタンを執拗に刺激していくのである。
《独学者は、少し意地悪そうに、またたいそう勿体ぶった様子で微笑する。
「私もそうは考えません。われわれの人生の意味を、そんなに遠くまで求めに行く必要はないと思いますね」
「というと?」
「一つの目的があるのですよ、一つの目的が……人間がいるのです」
そうだった。私は彼がヒューマニストであるのを忘れていた。彼は一瞬、黙っているが、そのあいだに、半分残っていた牛のワイン蒸しと、まるまる一切れのパンとを、容赦なくぺろりと平らげてしまう。「人間がいるのです……」、この心優しき男は、自分のすべてを描き出した。──そうだ、しかし彼はそれを巧みに言う術を心得ていない。彼の目には魂があふれている。》
秀逸な場面であるが、後味ははなはだ悪い。
ロカンタンは、この独学者が「田舎のヒューマニスト」un humaniste de province に過ぎず、人間は本質的に良きものであり、人はその自由意志によって自己を実現し、理想を追求することができるはずだ、といった旧来のヒューマニズムに浸っているお人好しに過ぎない、と断ずるのである。そこには、パリのヒューマニストの知友たちの洗練された身振りとの違いまでが述べられ、独学者の素朴さが揶揄されてもいるのだ。
だが、ロカンタンの〈いまここ〉は、やがて、そんな独学者を心中で嗤うだけでは済まなくなる。つつましく倹約しながらも食欲旺盛に皿を空にしていく独学者の前で、ロカンタンはやがて「途方もない怒り」に打ちのめされるのである。独学者のみならず、周囲の人々、俗界に対するロカンタンの反撥は過剰になり、限度を超えて暴走を始めるのだ。
そんな『嘔吐』の〈いまここ〉の動きをさらに追って行くことで、見えてくるものは何だろうか。世間のただ中を行くわれわれの目に、あらためて……。
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