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『嘔吐』を読む(22)──月曜日(3)「私の思考 ma pensée、それは私だ」

《待ちかまえていた〈物〉が急を察してざわざわし始めた。それは私に襲いかかり、私のなかに流れこみ、私は〈物〉で満たされた。》

 没頭していた対象が消え、自己を見失ったロカンタンは、〈存在〉に急襲されたと感じる。周囲には、あらゆる物が〈存在〉として居座り、転がり、流れ、衝突し、変容し、堆積し、蒸発し続けているのである。
 ここで、前回戯れに書いた喩え話に戻れば、こちら側の世界でわれわれはいっぱしの人間としてふるまっているが、向こう側ではアニメ映画『トイ・ストーリー』の玩具たち同様ただの物体に他ならないということになるだろう。そしてさらに、われわれがたんなる玩具から身を起し〈人〉として生きるこの世界自体が、実は現実ではなく仮想のメタバース空間に過ぎず、そこで〈何か〉がわれわれの身体をアバターとして動かしているだけなのだとしたら……その〈何か〉とは何か。
 これは、向う側の世界にあるものこそが〈本質〉だとするプラトン流の志向とは相反して、向こう側のガラクタのような〈存在〉がこちら側に投影されて、しばし右往左往する〈人〉と見えているのだという理解である。そこでの「私」とは、洞窟を貫く光線の中でつかのま浮かび上がる残像に過ぎないのだ。突如、残酷な子供の手が伸びてきて、われわれをむりやり玩具という〈存在〉に引き戻し、振り回し、遺棄するかもしれない。かろうじてカウボーイもどきだったはずの「私」は、否応なく木偶に引きずり降ろされ、同時に、それを無残と感じる意識自体も失うのである。後に残るのは、向こう側もこちら側もない、ただのっぺりとした広がりだけなのだ。
 そこで、われわれを動かしていた〈何か〉とは、〈命〉anima か、あるいは〈時間〉chronus か。われわれに向かって伸びる無邪気な子供の手も、ゴヤの描いたクロノス(サトゥルヌス)のごとき恐るべき力を持つのである。

 ロルボン侯爵という〈過去〉を捨てたロカンタンは、もはや逆流してくる〈物〉に襲われ佇立するしかないと見える。だが、そこで〈意識の流れ〉が抵抗するのだ。

《私はぱっと立ち上がる。もし考えることさえやめられれば、それだけでもましなのだが。思考というのは、何よりも味気ないものだ。肉体よりもさらに味気ない。それはどこまでも続いて一向に終わることがなく、妙な味を残していく。おまけに思考の内部には言葉がある。言いかけた言葉、絶えずまたあらわれる不完全な文が。「私は終えなければ……。私は存……。死んだ……。ロルボン氏は死んだ……。私は逆に……。私は存……」。もういい、もういい……こんなふうに、絶対に終わることがない。これが他のもの以上に始末におえないのは、自分に責任があり、自分が共犯者だと感じるからだ。たとえば、私は存在する、といったつらい考察だが、それを続けているのは私である。この私だ。肉体ならば、いったん始まればあとはひとりで生きていく。しかし思考はこの私がそれを継続し、展開するのだ。私は存在する。私は存在すると考える。ああ! 長くくねくねと続くこの存在するという感覚──それを私は展開している、ごくゆっくりと……。もしも考えるのをやめることができるならば! 私は試みる。そして成功する。頭のなかは煙が充満しているようだ……しかしまたぞろそれが始まる。「煙……考えない……。私は考えたくない……。私は考えたくないと考える。私は考えたくないと考えてはならない。なぜならそれもまた一つの思考だからだ」。つまり絶対に終わることがないのだろうか?
 私の思考、それは私だ。だからこそ私はやめることができないのである。私が存在するのは私が考えるからだ……そして私は考えるのをやめられない。今この瞬間でさえ──まったくぞっとするが──私が存在するのは、存在することに嫌気がさしているからだ。私は無に憧れるが、その無から私を引き出すのは私、この私だ。存在することへの憎しみ、存在することへの嫌悪、これもまた私を存在させ、存在のなかに私を追いやる仕方である。思考は私の背後から目眩〔めまい〕のように生まれる。私は思考が頭の後ろから生まれるのを感じる……私が譲歩すれば、思考は前方に、両目のあいだにやって来るだろう──そして私は必ず譲歩する。思考は大きく、大きくなって、今や巨大なものとなり、私をすっかり満たし、私の存在を更新する。》

 うんざりしたら、読み飛ばしてもいい。しかし、今の私にはこれも身に沁みて分かる部分なのだ。
 定職という〈過去〉を離れ、朝から晩までぼそぼそとひとりごちている老人には、思考こそがやっかいな連れ合いであり、足枷であり、かつ時々刻々をやり過ごす支えでさえあるのだ。老人はベンチに腰掛け何も考えずにぼーっとしているだけ、というのか。いや、彼はつねに〈何か〉に向かい、〈何か〉を思っているのだ。何も考えていない、とさえ考えるもの──それが〈意識〉なのである。
 まさに、下手の考え休むに似たり、いや、下手の考え──それこそが私なのだ。「私の思考、それは私だ」Ma pensée, c'est moi. なのである。
 が、待てよ。そんなやっかいな思考を擁さずとも、存在は可能だったのではないか。襲ってくる物体はただの存在として頑迷なまでの力をもっていたはずだ。いやいや、これはたんなる物体ではないのだ、払拭し難い流れとしての「私」なのだ。かろうじて、かつ、断ち切りがたく、「私」という意識がここに持続しているのである。
 それにしても、この部分の「存在」という語の繰り返しの多さはどうか。それは、我が身という物体をかかえた「私」が、〈いまここ〉を鳴り物入りで通過中だということを示しているのである。

 「私は存在する。私は存在すると考える。」

 「ああ! 長くくねくねと続くこの存在するという感覚──それを私は展開している、ごくゆっくりと……。もしも考えるのをやめることができるならば! 私は試みる。そして成功する。頭のなかは煙が充満しているようだ……しかしまたぞろそれが始まる。」

 まさに然り、と言いたくなる。思考がアヘンのように「私」を持続させている。それは、めまいのように背後から生まれ、充満し、「私」の〈いまここ〉を「更新」して行くのである。
 一人でいると馬鹿げたことをしてしまうことがある。若者は故意で、老人は過失で。そう、存在する身体を傷つけるのだ。

《唾は甘ったるく、身体はなま温かい。私は自分が味も素っ気もないと感じる。ナイフはテーブルの上にある。私は刃を開く。どうしていけないのか? いずれにせよ、いくらか変わるだろう。私は左手をメモ用紙の上に置き、自分の手のひらにナイフをぱっと突き刺す。動作があまりに神経質だったのか、刃が滑って傷はごく浅い。血が出る。それで? 何か変わったことがあるのか? ともあれ私は満足感を覚えながら、少し前に自分で書いた白い紙の上の数行の文字にかかる小さな血の溜まり、ついに私であることをやめたこの血の溜まりを眺める。白い紙の上の四行の文字と、血の染み、これこそ美しい思い出だ。私はその下にこう書くべきだろう、「この日、私はロルボン侯爵にかんする本を書くのを諦めた」と。》

 ロカンタンという〈意識〉が〈いまここ〉で、もてあました肉体にちょっかいを出したのである。何も変わりはしないと知りながら。

《五時半が鳴る。私は立ち上がる。冷たいシャツが肌にはりつく。私は外出する。なぜか? つまりそうしない理由もないからだ。たとえ部屋にいても、たとえ黙って隅にしゃがみこんでいようとも、自分を忘れることはないだろう。私はそこにいて、床に体重をかけているだろう。私は在るのだ。》

 これも、まるで老人の生活感覚のようではないか。無目的、怠惰、……etc。ますます私には、老人と若者がよく似ていると思えてくる。各々に不足しているものは、時間と金か。しからば、こっそり黒服を着てお茶の水橋の上にでも現れようか、密売人かメフィストのように。不足しているものどうしを交換しに。だが待て待て、ここはやはり、この若者について行くことにしよう。
 新聞を買ったロカンタンは、殺人事件のニュースに激昂する。彼は、強姦され殺された少女の遺体発見の記事を読み、突如、憤り、かつ、恐れ、悶える若者となるのである。

《通りがかりに新聞を買う。センセーショナルなニュースだ。リュシエンヌちゃんの遺体が発見された! インクの匂い(1)。紙が指のあいだで皺くちゃになる。破廉恥漢は逃走した。女の子は強姦された。遺体が発見された、泥のなかで痙攣する指。私は新聞を球のようにまるめる、新聞の上で痙攣する私の指、インクの匂い、ああ、今日はなんと物が強烈に存在するのだろう。リュシエンヌちゃんは強姦された。絞め殺された。彼女の身体はまだ存在している、傷つけられた肉体が。彼女はもう存在していない。彼女の手。彼女はもう存在していない。家々。私は家々のあいだを歩く、私は家々のあいだに在って、真っ直ぐに敷石の上を辿る。敷石は足の下に存在する、家々が私に覆いかぶさる、水が私の上に、白鳥の山となった紙の上に、押し寄せるように、私は在る。私は在る、私は存在する、我れ思う故に我れ在り。私は在る、なぜなら私は考えるからだ、なぜまた私は考えるのか? 私はもう考えたくない、私は在る、なぜなら私はもう在りたくないと考えているからだ、私は考える……なぜなら……たくさんだ! 私は逃げる、破廉恥漢は逃走した、彼女の強姦された身体。彼女は自分の肉体に別な肉体が入りこんで来るのを感じた。私は……いま私は……。強姦された少女。強姦という血まみれの甘美な欲望が私を背後からとらえる、ごく甘美に耳の後ろで、耳は私の後ろに流れる、赤毛の髪、それは頭の上で赤茶色をしている、濡れた草、赤茶けた草、それも私だろうか? そしてこの新聞は、それも私だろうか? 新聞をにぎる、存在対存在、物は互いにぴったりくっついて存在する、私は新聞を放す。家が飛び出して来る、私の前に家は存在し、壁に沿って私は進む、長い壁に沿って私は存在する、壁の前だ、一歩で、壁が私の前に存在する、一つ、二つ、私の後ろだ、壁は私の後ろに在る、一本の指が私のズボンのなかで引っ掻いている、引っ掻き、引っ掻いて、泥まみれの少女の指を引っ張る、私の指についた泥、指は泥の溝から出てきたが、静かに静かにふたたび落ちる、力も萎えて、引っ掻くのも弱々しくなった、破廉恥漢め、絞め殺された少女の指は泥を掻いていたが、土を掻く力も衰えた、指は静かに滑って行き、頭を下にして落ち、温かくまるまって私の腿を愛撫する。存在はやわらかい、そして転がり、揺れ動く、私は家々のあいだを揺れ動く、私は在る、私は存在する、私は考える故に揺れる、私は在る、存在は転落だ、落ちた、落ちないだろう、落ちるだろう、指が開口部を掻く、存在は不完全である。〔略〕》

 「存在」の氾濫は止まない。まさに〈意識の流れ〉の危険な佳境である。
 ロカンタンは、まるでカフェ・マブリ上階に「存在」するファスケル氏のイメージに対したように、大仰に心を騒がし、恐れつつ、具体的な想像に耽るのだ。これらの身体とエロスにまつわる想像は、若者の意識と存在のせめぎ合いの中で、より生々しく、まがまがしい域にまで達するのである。そして、彼は意識と身体をさまよわせたあげく、「海軍酒場」へとたどり着き、ジャズを聞くのである。

《 When the mellow moon begins to beam (やわらかな月が輝き始めるときに
  Everynight I dream alittle dream.   毎晩わたしはちょっとした夢を見る)

 低い嗄れた声がとつぜん現れると、世界が消える、存在の世界が。この声を持っていたのは肉体を備えた一人の女だ。彼女は精一杯に着飾って、レコードの前で歌い、その声を人が録音した。女。冗談じゃない! 彼女も私のように、ロルボンのように、存在したのだ。彼女と知り合いになりたいなどとはひとつも思わない。だが、こいつがある。これは存在していると言えないのだ。回るレコードは存在している。声に打たれて震えている空気は存在している。レコードに吹きこまれた声はかつて存在した。聴いているこの私は存在している。すべては充満しており、至るところに存在があり、それは濃密で、重く、やわらかい。しかしそのいっさいのやわらかさの彼方に、これがある、近寄りがたいもの、ごく近くでありながら、何と余りに遠くにあり、若々しく、冷酷で、しかも穏やかな〔鈴木訳では、澄み渡った〕……この厳しさが。》

 突如、英語で歌う女の声 la voix が現れ、世界が消える le monde s'évanouit。「存在」を超えた「こいつ」ça =声が「私」をつつみ、意識を「存在」の彼方へと解放するのである。
 それは、やわらかさの彼方にあって近寄りがたく、また、ごく近くでありながら余りに遠く、「若々しく、冷酷で、穏やかで」jeune, impitoyable et sereine 、かつ「厳しさ」rigueur を持ったものなのだという。すなわち、いまここで、甘美に空気を震わせた歌声が、ロカンタンを救ったのだ。
 それこそが、私の注目する〈いまここ〉の動きなのである。

 こうしてやっと、月曜日の〈冒険〉が終わったのだ。

https://youtu.be/7M2xHyF_wh4

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