見出し画像

『昭和16年夏の敗戦』日米開戦前に総力戦研究所では「日本必敗」という結論が出されていた

8月15日は終戦記念日でした。来年で、あの大戦から80年を迎えます。多くの国民にとって戦争体験は非常に遠いものとなり、時代の流れを感じざるを得ません。

今回は、猪瀬直樹さんの著書『昭和16年夏の敗戦』について触れてみたいと思います。昭和16年といえば、真珠湾攻撃が12月に行われ、太平洋戦争が始まった年です。日中戦争が泥沼化する中、アメリカとの決戦に挑むかどうかを日本政府内でシミュレーションした様子が描かれた本です。

日米開戦前夜とも言える昭和16年の夏、「総力戦研究所」のシミュレーションでは、日本は必ず負けるという結論が出ていたにもかかわらず、日本が太平洋戦争に突入した過ちを振り返ることで、今の時代に私たちがどのように判断していくべきかが見えてくると思います。

総力戦研究所のシミュレーション

首相直轄のこの研究所が設立されたのは1940年(昭和15年)です。各省から若手のエリートが集められ、それぞれの省の担当者が閣僚役を務め、日米開戦時の軍事、エネルギー、食料、財政の動向などを徹底的にシミュレーションしました。

そのシミュレーションの結論は「日本は初戦においては善戦する可能性があるが、戦争が長引けば必ず負ける」というものでした。この研究の結果は昭和16年8月に政府に届けられ、当時の内閣総理大臣であった近衛文麿や、陸軍大臣の東條英機にも伝えられました。その後、近衛首相は日米開戦前に日米交渉の決裂を受けて総辞職し、実際の日米開戦は後任の東條首相の時に行われました。

この2人がこの総力戦研究所のシミュレーションをどのように受け取っていたかを推し量ることは難しいですが、東条が「これはあくまで机上の演習だ」と言った記録が残っています。政府の研究所が「必ず負ける」というシミュレーション結果を出していたにもかかわらず、政府がその結果をどの程度深刻に受け止めていたか、疑問を感じざるを得ません。

シミュレーションの通り、日本は太平洋戦争の初期段階では善戦しましたが、やがて戦況が悪化し、エネルギーも食料も尽き、敗戦を迎えます。戦後の財政破綻によって国民はハイパーインフレに苦しむことになります。

政治家になった直後にこの本を読んだ私は、総力戦研究所に強い興味を抱き、資料を国会図書館から取り寄せてみました。残念ながら、詳細な資料が手に入らないのは、当時の政府によって廃棄された可能性や、戦後に米国に持ち去られた可能性があるからかもしれません。

靖国神社とA級戦犯

毎年、終戦記念日には多くの方々が靖国神社に参拝されています。私も今年の春、「大人の社会科見学」として、多くのVoicyプレミアムリスナーの皆さんと一緒に靖国に参拝してきました。私の祖父の弟、細野光男が靖国神社に祀られています。マスコミに伝えたり、公にしたりする形ではなく、静かな環境で参拝し、戦争で亡くなった多くの方々に哀悼の意を捧げることも合わせて行っています。

靖国参拝が政治問題化した発端は、東條英機を含むA級戦犯が合祀されたことです。「大人の社会科見学」では、東京裁判が行われた市ヶ谷記念館も見学しました。こんなに狭い場所で彼らが公正とは言えないような裁判を受けた事実に、感慨を覚えずにはいられません。

彼らにはそれぞれ汲むべき事情もあったと思います。しかし、東京裁判がなければ、我が国が戦後をスタートすることはできなかったでしょう。彼らが責任を取ることで、天皇陛下は戦争責任を問われることなく、戦後の日本は国家としての連続性を維持しながら歩みを始めることができました。

汲むべき事情があるにせよ、A級戦犯の責任は免れないと私は考えています。あの戦争は、日米の国力の差を考えれば、戦っても勝てないことは戦う前に結論が出ていました。それにもかかわらず戦争に突入し、300万人を超える国民が犠牲になり、世界に大きな被害をもたらしました。

私の祖父は年の離れた末弟を戦死させたことを、最後まで悔いていました。私は靖国神社に参拝しますが、A級戦犯も合祀されていることについては、どこかにわだかまりが残っています。

「アジア主義者」松井石根の生涯

静岡県熱海市に興亜観音という場所があるのをご存じでしょうか。陸軍大将だった松井石根が建立した観音像で、巣鴨で処刑されたA級戦犯の骨が埋まっています。松井石根は、陸軍の幹部の中でも士官学校を極めて優秀な成績で卒業し、アジア主義者としても知られています。

アジアの国々の近代化や民主化を支援しようという勢力が、当時の日本にはありました。中国から亡命した孫文を頭山満などが支援したことはよく知られています。こうしたアジア主義者の中には、後に浪曲師になった宮崎滔天など、興味深い人物も多数いました。孫文のような自由主義者だけでなく、中国共産党の幹部も日本に来て学んでいました。民間人だけでなく、犬養毅や大隈重信などの政治家、そして軍の中にもアジア主義者が活躍していたことは、日中をめぐる非常に興味深い歴史の一コマです。

陸軍で最も著名なアジア主義者が松井石根です。蒋介石とも交流があった松井石根は、日本と中国が協力することで欧米からの侵略を防ぎ、民主化と経済発展を目指すという考えを持っていました。

松井石根は一時現役軍人を退きましたが、中国が国共合作などにより日本から離れようとした段階で再び復帰し、南京攻略の指揮を取る役割を担いました。多くの中国国民が犠牲になったとされる「南京大虐殺」の責任者として、巣鴨で処刑されています。アジア主義者として陸軍内で最も中国と深い関係にあった松井石根が南京攻略の指揮を取ったことは、皮肉な話です。

熱海の興亜観音と靖国神社

その松井石根が日中戦争の最中(太平洋戦争が始まる前)に建立したのが興亜観音です。アジアの復興と共に、日中戦争において双方に犠牲者が出たことを供養するため、伊豆山に立派な観音像が今も建っています。

東條英機、松井石根ら巣鴨で処刑された戦犯の遺骨を残すことをGHQは許しませんでしたが、決死の覚悟で「興亜観音」まで運び、埋葬した日本人がいたのです。この事実は長く歴史の中に埋もれていましたが、戦後10年以上経ってその事実が明らかになり、そこで今も祈りが捧げられています。

興亜観音については、歴史の変遷の中で管理が行き届かなかったり、様々な思想が入り込んだりして、性格が変わりつつありますが、私は今も熱海の伊豆山を訪れた際には、ここにお参りするようにしています。

先の戦争を振り返るとき、戦争を起こした人間と、その指示に従って戦地に赴き命を落とした人間は、分けて考えるべきではないかと思います。そこを分けることが、二度と国策を誤らないことを誓う一方で、国を守る自衛官を敬うことにつながるのではないかと思うのです。


いいなと思ったら応援しよう!

細野豪志
ご支援いただくと励みになります!!