賽の河原
常世と現世を隔てる三途の川、
その河原を "賽の河原" という。
賽の河原では親に先だって死んだ子供たちが、
黙々と小石を積んで親を供養している。
やがて彼方から鬼がやって来る。
なんだ、この歪な塔は。
こんなもので供養になると思っているのか。
親より先に死んだ親不孝者が。
この程度の事も満足にこなせない。
貴様の両親は嘆いているぞ、
何故こんな子を産んでしまったのかと。
貴様の両親は恨んでいるぞ、
あんたなんて産むんじゃなかったと。
お前はなにも生み出さない。
誰もお前を愛さない。
お前には何もない。
愚図が。
一頻り子供を罵倒したあと、
こうして折角積み上げた石塔を蹴り飛ばして破壊する。
作り直せ。
初めからだ。
こんなものでは供養にならん。
そして鬼は去って行く。
子供たちはまた一から小石を積み上げる。
あるものは泣きながら。
あるものは歯を食い縛りながら。
そしてある程度石を積み重ねると、
再び鬼が現れて、罵倒して、破壊して、去っていく。
小石を積み上げては、壊されて、
手に常に血を滴らせて、
積み上げては、壊されて、積み上げては、
壊されて、積み上げては、壊されて、積み上げては、
壊されて、積み上げては、壊されて、
積み上げては、壊されて、
積み上げては、
壊されて。
・・・
現世の本質が諸行無常ならば、
常世の国は不死の国、不老不死、万古不易が本質である。
この石積に終わりは見えない。
河原に落ちている石ころで、
綺麗な塔を作ろうということがそもそも不可能なのだ。
鬼の理不尽を掻い潜ることが出来ない。
積んで壊して、
壊れていくこともできず
積んで壊して。
地獄の本質は永久に終わらない苦しみ、
さらにその核心は永続性にある。
ここは常世と現世の入り交じるところで、
地獄ではないのに、
どうしてこんなにも辛い思いをしなければならないのだろうか。
ただし、救いはある。
暫くすると地蔵菩薩が現れて、
子供たちを救ってくれるのだそうだ。
。。。
転じて"賽の河原"は"無駄な努力の例え"としても使われる。
どんなに石を積んでも、理不尽に破壊されてしまう。
石を積むのは無駄な努力であるというわけだ。
非常に的を射た表現だと思う。
悲しいことに現世にも"塔を壊しに来る鬼"がいるのだ。
理不尽な仕事を振ってくる。
こっちがそれを消化している間に考えが変わるのだろう。
理不尽に撤回して、また別の理不尽な仕事を振ってくる。
成果にならない果て無き仕事という名の滑車をひたすら回す。
いい大人が河原で石を積まされているのだ。
鬼の上司は私が積んだ石をいとも簡単に壊し去って、
おまけの人格否定の言葉を添えて、
新たな石積みの仕事を与える。
そして私は石を積む。
石を積むのはいい。
どうかそれを壊さないでくれ。
隣に立てても問題ないだろう。
頼むから私の努力を、賽の河原に帰さないでくれ。
。。。
賽の河原の子供たちには、
やがて地蔵菩薩という救世主が現れる。
子供 は 私 で、
鬼 は 上司 ならば、
私にとっての地蔵菩薩とはなんだろうか。
死ぬことかな。
という考えが過ったので、
この件にはもう関わらないことにした。
さよなら、それも宛ら、賽の河原。
終わり。