らいおんのめす
新潮社第16回女による女のためのR-18文学賞
一次選考通過作品
◇
黄昏という言葉は、もう少し叙情のある風景に使われる物だと思っていた。日没直後の西の空の夕焼けの名残。一日の終わりを思わせる美しい空の色。
なぜか寂しくなる色。
けれど、今の私には空を眺める余裕はない。今や、黄昏はユキナの泣き声とセットの夕暮れ時のことで、その泣き声を聞くと、私の乳房は、自動的に硬くなる。
授乳をするようになってから、胸でも、おっぱいでもなく、私のその部分は乳房という単語が一番似つかわしいように思えた。
「ユキナ。お腹がすいたのかな?」
ユキナは何も応えない。6ヶ月の赤ん坊だから。応えない相手に何かを話し続ける事が、こんなにも、虚しく疲れる事は、誰も教えてくれなかった。
そう。例えそれが、痛い思いをして産んだわが子であっても。
こんなにも、身体や心が変わってしまう事も、誰も教えてくれなかった。
「子どもは三人くらい欲しいの」
夫の孝明にプロポーズされた時にそう言った、無邪気な私はもういない。
抱き上げると、腱鞘炎で危うい手首が悲鳴をあげる。だらしなく開いた胸元を、更に開いて娘に差し出す。
哺乳瓶の乳首を見た時。これが疑似乳首だなんて。と私は笑った。けれど今自分が娘に、差し出している自分のそれが、哺乳瓶とそう変わりない事に気づいた時。
誰か教えてくれてもよかったのに。と恨めしく思った。
黄昏に、何を恐れてか泣く娘は、私の乳房を吸う。
固くなった私の乳房は、それを解放ととらえる。
泣き声で仕掛けたのは娘。
それを解放するのも娘。
なんだかそれは……。
「綾香ちゃん。きとったん? そんな縁側で西日あつうない?」
「あ、うん。大丈夫」
「そうなん?」
まぐまぐと、娘に乳房を吸われている時に誰かに声をかけられるのは気まずい。その時の自分の顔は、自分の知らない顔のような気がする。
私が背を向けた気配を感じたのか、叔母は私の姿だけを確認して、縁側の側に座った。ナイロン袋が、ガサガサと音を立てて叔母と同時に座った。
「電話しとってくれたら綾香ちゃん、あんた、お姉ちゃんには連絡したん?」
「お母さんに、ここにおること? 言ってないけど、智香が言っとると思うで」
叔母はふうとため息をついた。
「お姉ちゃんとまたけんかしたん?」
「帰れ帰ればっかりゆうけん。里帰り出産した時は、もっとおれおれ、言っとったのに勝手じゃわ」
「出産の時と、今は違うがん。急に東京から帰ってきて、しばらくおりたいって言ったら、心配じゃわ」
「心配って何が?」
「旦那さん、一人にして、好き勝手したら、心配じゃろ?」
「みんな、なんで、私じゃのうて、旦那が心配なんじゃろ?」
「旦那さんが、心配なわけじゃないんで? 旦那さんほったらかしにしたら、綾香ちゃんがどうなるかが、心配なんで?」
「どうなるん?」
「どうなるって……。ああ、おばちゃんにはようわからんかった……」
叔母は、くくくと笑った。私もそれにこたえてあははと笑った。
「綾香ちゃん、今日泊っていくん?」
「うん」
「だったら、もうちょっと、野菜とってくるわ」
「ええよ、私、とってくるで?」
「おばちゃんは、ユキナちゃんの面倒はよう見れんもん、ええから、そこ座っとき」
叔母はそういうと、私の返事も待たず。裏の畑に行った。
◇
母の実家。祖父母の家にはずっと叔母がいた。役場に勤めていたこともあったらしいのだけれど、私が物心つくころには、寝たきりになっていた祖父の介護をするため、仕事なんかとっくにやめていた。
その祖父が亡くなってから、入れ違いのように認知症になった祖母の面倒をみて、その祖母が亡くなるまで、面倒を見続けて、気が付くと叔母はこの家にひとりぼっちになっていた。
損な人だと思えて仕方ない気もするけれど、いつ会いに来ても穏やかな表情を浮かべる叔母には、使った時間への後悔は、少しもないように見えた。
子どもの頃、この家に来るのは、あまり好きではなかった。雑然としているのに、妙に物々しくて、祖父母物のらしき臭いがして。けれど、行きたくないと言う勇気もなく、母に連れられ、よく来ていた。
好きではなかったのに、叔母だけになってしまうと、ちょくちょく来てしまった。
時間が、止まっているような気持ちになってしまう家に居心地の良さを感じるのは、今の自分の時間に動きを感じないからだ。
かつては鯉が泳いでいたけど、もう水を抜いてしまった池と、叔母一人が耕すには十分すぎる広さの畑。長い縁側に仏間に、納戸。古い日本家屋。
昭和の忘れ物みたいな家にこんなに慰められている。
ユキナは、私の乳首をもぐもぐしながら、眠り始めた。完全に口が離れるまで、私はその口元を眺める。
「ユキナちゃん、やっと寝たん?」
「しーっ。でもこのままじゃないとすぐ起きると思うわ」
布団の上に置いたら再び泣いてしまうのは、もう十分学習しているから。抱いたまま、できることを済ませるようにしている。トイレが無理だから、そこが特に要注意だ。
「ユキナちゃん抱っこしたままで食べれるん?」
「大丈夫」
「だったら、ごはんするなあ」
叔母は台所へ向かった。私は胸をしまう。ふと左胸が冷たい事に気づいた。母乳パッドがずれていたらしい。不快さを無視することに決めて、ユキナをおこさないようにゆっくり立ち上がり、茶の間に向かった。
◇
最初に、たまらない不快さに見舞われたのは、産後一週間で、今日退院すると、言う日だった。これから、上げ膳据え膳の入院生活が終わり、明らかに疲弊しているからだで、これからどんな生活が待ち受けているか、恐怖に似た不安で、いっぱいの私に、夫の孝明がさらりと、まるで明日の天気の事を尋ねるようにこういったのだ。
「いつからできるか、聞いといて」
「何が?」
「セックス」
かちん。
陶器を金槌で、壊したような音が、頭に響いた気がした。夫が、見知らぬ人間のように思えた。この人は見ていたはずだ。私が19時間も陣痛に苦しんでいたのを。それを、全部、なかった事にされた気分だった。
でも、どういうわけだか、その時夫に怒ることができなかった。
「……。わかった。聞いてみる」
担当医に聞いた時のあの虚しさが今も去来する。
こどもができると言っても男は、何一つからだが変わることがないのだ。この当たり前の違いを、孝明から見せつけられたような気分だった。
それでも、数時間おきの授乳で常に眠たく、けだるい膜に包まれていた私は、深く考えたり、怒ったりする気力もなく。霧のかかった頭で、違和感に立ち向かえるはずもなく。
ただ、彼の運転する車に乗った。
◇
母の実家。叔母の家に泊まって三日もすると、母から刺客が送られてきた。
妹の智香が、こども二人を連れてやってきたのだ。
「おばちゃんおるー? おねえちゃんどこなん?」
このうちで、誰かがインターホンを鳴らすのは見たことがない。みな、どこにいるか、大体見当をつけて入ってくるのだ。けれど、智香の声や、言い回しが、あんまりにも母とそっくりで、思わず笑ってしまう。
茶の間に、人の気配を感じたのだろう。大きな足音を立てて入って来た。
ユキナの寝ているわずかな時間に、智香に来られるのは、正直辛い。少しも身体が休まらないからだ。
智香は高校を出てから、私のように進学することもなく、地元でフリーターをしていた。当然の流れのように、高校の時の同級生と、二十歳で結婚し、今に至る。まだ二十五歳なのに、二人の子どもと、今も大きなおなかを抱えている。三人目は男の子がいいと、言っていたけど、私はまた女の子のような気がする。
「おねえちゃん、おるんだったら返事しんちゃいや。おばちゃんは?」
智香はゆっくり、私の隣の座布団に座った。二人の姪はその後ろにすとんとお尻をつけて座った。
「あんたが来たけん、台所行ったで。人数分カルピスつくりょんじゃろ」
「カルピスかあ。懐かしいなあ」
「そうじゃな」
二人の姪は、5歳と3歳で、出産まで、ほとんど実家どころか、地元に寄り付きもしなかった私には全然なついておらず、おびえた野生動物のように、私から離れた場所でじっと私の様子をうかがっている。
全然なついていないけど、こういう所は、母親の智香ではなく、伯母である私によく似ていて、この2人を初めて、微笑ましくながめることができた。
「智香ちゃん、いらっしゃい。蘭ちゃんも凛ちゃんもよう来たね。暑かったじゃろう? スイカもあるんで、切ろうか?」
「おばちゃん、ありがとう。スイカはええわ。今食べたらこの子ら晩御飯全然、食べんけん。ほんまに暑いわあ。夏に臨月はいけんなあ」
「ああ、だったら、持って帰りんちゃい。ちょうどいいの取ってくるわ。蘭ちゃんと凛ちゃんに手伝ってもらおうかな」
姪の蘭と鈴は、伯母の私にはなついていなくても、大叔母にはなついているらしい。こくんと頷くと、叔母の後について、畑に行ってしまった。
智香は、カルピスをぐびぐび飲んで、ふうっと息をついた。
「おばちゃんのカルピスは昔から濃かったなあ」
「そうじゃな、それに比べてお母さんのは……」
「ほんまに薄かったよなあ。カルピスはこっそり自分でつくっとったわ」
「そんなことしとったん? 知らんかった」
「うん。なあ、お姉ちゃん。帰ってきんちゃいやってお母さんゆっとったで」
「でも、帰ったら、絶対、また早う東京帰れ言われるんじゃもん」
「なんで? なんで帰りたくないん?」
智香の問いに、答えかねていると、ふすまの向こう側で寝ていたユキナが、泣き始めたので、ふすまを開けて抱き上げた。
「おむつじゃあなさそうじゃな」
智香の言う通りだ。右胸から乳房が固くなっていく。ユキナに右胸からそっと乳首を含ませてやると、規則正しく、まぐまぐと口を動かし始めた。
「6ヵ月かあ。今くらいが一番大量生産しとるよな」
「何が?」
「母乳」
「あんた、またそんなこと。前にもなんか変な事ゆうとったね」
「男の射精なんか、授乳以下の爽快さしかないと今も思っとるで、だいたい量も全然ちがうがん」
「その話はどうかと思うけど、なんじゃろうな。何にも考えられんようになるけん、私はそれがつらいわ」
「何にも考えんかったら、ええんじゃないん?」
「何も考えんかったら、何もできんもん」
「なあ、お姉ちゃん。もう一度聞くけど、なんで向こうに帰らんのん?」
「……」
「どうせ産後クライシスじゃろ? ここにおっても、なんも解決せんのんで? お義兄さんと話さんと」
「……た、に」
「え? 何よ?」
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