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私の左手の薬指の先、ハム一枚ぶん。
※流血と痛みの表現がありますので、苦手な方は「そっ閉じ」していただくか、背景の色が変わり次第飛ばしていただければ幸いです。そうです。この注意書きと同じ色の背景になったら、そっと視線を白い背景の部分まで飛ばしましょう。いや、そこまでして読まんでもとも思いますのでやっぱり流血と痛みが苦手な方は「そっ閉じ」を推奨いたします。
私は皮膚は弱いし、爪が紙みたいにぺらっぺらでよく割れたり欠けたりするし、花粉症もひどい。
けれども、自分が健康だということに、ものすごく自信がある。
いわゆる感染症には10年以上もかかっていない、最後にかかったのは現在中2の息子が保育園の時かかったインフルエンザをもらった時だ。
そして、ケガもしない。階段の一番上から前転をするように下まで落ちても、骨折はしないし、かすり傷もすぐ治る。
献血にいくと看護師さんに
「いい血ですねえ。重くていい!」
と言われる。実際指先を切った程度なら、すぐ血が止まる。
爪がペラペラなので骨はどうなんだろう? と気にしてスーパーの催しもので骨密度を測ってもらえる機会に恵まれた際、計測したところ20代前半並みの骨密度だと言われた。
よく考えてみれば爪は皮膚と同じケラチンタンパク質でできているから、骨とは関係ないんだなあ、などと思いつつ、その催しものでサプリメントを買ってほしかった計測してくれたお兄さんの苦笑いに心からありがとうと言ってたどり着いた結論は、どうやら、私の体はやはり頑丈なのだ、ということだった。
とても健康なので、本当に病院に縁がない。
なので、その時、ものすごくパニックになってしまったんである。
7月の半ばだった。
私は夫と二人で飲食店を営んでおり、いつもの自分の担当の仕込みを行っていた。毎朝のルーティーンの作業である。そこで、私は以下のように左手の薬指の指先を切ってしまった。
左手の薬指の先に一瞬、熱いような感覚が走ってその次の瞬間に「これはヤバい」と思った。「熱い」という感覚は仕込みだけじゃなく家事をしていてもちょっと切ったり傷になることはよくあることなので、知ってる感覚でしたが、今回は
「指先が無くなった」
という感覚があった。やばい、かなりがっつり切ってしまったなって。見るのが怖かった。どれくらい切ったのか分からないんですが、
とにかく
「なくなった」「ない!」
という感覚が痛みより、なによりも怖かった。
そして、今まで経験したことのない流血!
血が止まらないんです。自分至上初!!!
1分以上血が止まらない!
ティッシュで押さえてみるものの血が止まらない。まあせいぜい大さじ2杯くらいの量なのですが血が止まらないということと、「指先がない」という感覚的にこれは病院にいかないと無理だな、と思い慌てて夫を呼んだ。
「夫ちゃん、ごめん、今日無理かも」
「マジか?」
この時開店15分前。夫は私とは違う原因でパニックになった。
もうすぐにでも開店できる店を直ちに閉めなければならない。この時夫の頭の中にあったのはいつもの開店時間よりも前にシャッターを閉めること。
この日はよりによって土曜日だった。
一度お客様が来てしまうと、しばらくは開店を維持しなければならなくなりかねない。
私は夫ちゃんに今日無理かもと伝えてから、ふと、まな板に放置した包丁を見た。
包丁の刃には、私の左手の指先にあったはずのハム一枚分の厚さの丸い何かが張りついていた。色は真っ白で、それが自分の体の一部だったという実感はない。
そして、ようやく傷口を見る決心がついて、握りしめていたティッシュを緩めて確認すると、チーズインウィンナーを切った切り口の配色が逆。しかも中真っ赤。これはもしや肉? みたいなことになっていました。うん。見なきゃ良かったと思いつつ「ない」という感覚のわりに意外と「ある」と思いました。
「ない」という感覚に頼ると1センチぐらいは切り離してしまったような感覚だったので、想像していたよりはずっと被害は小さい。でも、これ、どんなふうに治るんだ?
その予想もつかず、パニックは加速しました。
「ねえ、こういうのって、何科で診てもらえるのかなあ?」
「とりあえずあそこの病院に歩いて行ってくれば」
夫のいう病院は私の記憶の限り得意分野は内科。しかも歩いていけば? にかなりイラッとした。みなさん、思い出してください。今年の夏のこと。ありえんくらいの猛暑でしたよね。
血が止まらない中、この炎天下を歩いて病院に行く……。どう考えても無理でしょ。
「いっそ、救急車よぼうかな……」
私がそう言うと夫はすかさず、
「それはやめておけ!」
夫にとってはちょっと切ったくらいにしか見えないので仕方ないんです。だって実際ハム一枚分の厚さですから、大したことないと思われてしまったんだと思いますが、私はとにかく痛みよりも何よりも指先が「ない」という感覚を重く受け止めていたため、夫にカチーンと来ました。
あなたが運転できない(夫は運転免許がない)から、歩いていけって酷くない?
と言いたいのをぐっと堪えて、Googleで検索しようとしましたが、右手だけではうまくいきません。土曜日なのできっと午前診のみという病院も多いはず。
時間、時間がない。ええいもうこうなったら!
「119番に電話するわ」
「はあ、救急車は……」
「119番に電話して近くで今から診てくれる病院を教えてもらう」
そして、私は119番に電話をして、近くの整形外科を2件教えて貰いました。
そうか、けがをした時は整形外科でいいのか、と思いつつ教えてもらった病院の一つに電話をしたところ、もうすぐ受付が終了するからすぐ来いとのこと。
私は身支度をしました。
「ちょっと行ってくる」
「運転できるんか?」
「運転するしかないし、もうすぐ受付終わるっていうから行くしかない!」
この時の夫の後ろめたそうな顔はちゃんと覚えているけど、それでもこの時あった感情は不安と怒りと、とにかく夫がムカつく、だった。
ティッシュでぐるぐる巻きになった手で、車のスタートボタンを押したとき。今さらながら、姫路みたいな地方都市で家族で運転できるのが私だけってのはリスクが高いことなんだな、と思いつつ。
り・こ・ん、り・こ・ん、り・こ・ん・し・て・や・る!
ぜっ・た・い、ぜっ・た・い、り・こ・ん・し・て・や・る!
三三七拍子に合わせてこんなことをつぶやきながら、初めていく病院だったので、カーナビの指示通りに行ったところ、なぜか民家しかない、細い道に案内された。
「目的地周辺です」
いや、カーナビよ。たぶん違う。全然周辺じゃないし、見当たらないよ。と思いつつ来た道を戻っているうちに……。
タイムオーバー!!!
受付時間終了に。どうしよう。もう一つのところってどうだったっけ?
検索すると、そちらはなんと、土曜なのに診療時間が15時まで。
焦らなくてもいいことが分かり、深呼吸をして、りこんしてやる音頭も引っ込めて目的地に向かいました。
運転しながら、今度はあの切り離したハム一枚分は捨ててもよかったのか? が気になりだしました。よく、切断したら牛乳に入れて持っていくといいみたいなこと、ネットで見かけたような。でもそれは、もっと大きく切った場合? と思いつつも映画「黒い家」で大竹しのぶが指を持ち歩いてるシーンがよみがえって、げんなりしつつ、いよいよ病院へ。
受付で事情を説明しました。かなり待つことを想定していたのですが、秒で処置室に案内してもらえました。そこで看護師さんに状況を説明。
「ちょっと、傷口を洗っておきましょうか」
看護師さんにそう言われて、そうするべきなのも分かっていたけど、できる気がしませんでした。実際、傷口を水道で流した瞬間に……。
「きゃあーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー」
と自分の声とも思えない声が出まして、看護師さんもすぐに
「やめておこうか」
と言いました。
「これね、すごいの。傷口にこれをあてておくと、肉がちゃんと盛り上がってびっくりするくらい早く治るの」
看護師さんがそう言って見せてくれたのは、薄く焼いたホットケーキを小さく切ったようなスポンジのようなもの。
私は半信半疑ながらも、肉が盛り上がって治るという言葉に安心しました。
だって、切ってしまった私の指、金太郎飴みたいに垂直な断面になっているんです。このまま治ったら不気味だなあって。
そして、看護師さんの説明と冷静な優しさに接しているうちに……。夫の言う通り救急車は呼ばなくてよかったなあと思いました。
あのスポンジ、すごかったです。当てた瞬間に痛みが和らぎました。それから「ない」という感覚も和らいだんです。
処置してもらって帰宅。夫も開店からの高速閉店処理が終了し、心配げな顔。とたんに「りこんしてやる音頭」が急速に恥ずかしくなりました。頭に血が上っていたんだなとつくづく思いましたね。
「痛いやろ? もう、寝とけ」
そう言われてすべてを夫に丸投げし、素直に寝ました。
それから、10日ほどで、ガーゼは外されました。ガーゼ交換の度に看護師さんに「めちゃくちゃ順調!」と言われ、やはり私の体は丈夫、と実感しました。
あれから、五か月、私の左手の薬指はぱっと見何事もなかったかのようにきれいに治っているのだけれど、その感覚は明らかに以前とは違っている。
やっぱり「ない」というかんじがするんです。少しだけだけど。触ると「ああ、あるのか」と思えるんですけどね。それから、触ったり当たったりすると、痛みともかゆみとも違う、感覚があります。
幻肢痛というものは聞いたことがありました。なくなってしまった体の一部の痛みをなくなってしまってからも感じるというやつです。
でも「なくなってしまった」と感じることについては聞いたことがなかったので、書いておこうかなと思いました。
私の左手の薬指の先、ハム一枚ぶん。
今も私の薬指の先には完全にはないような気がしています。