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君たちが大人になった時に話をしたい大人でありたいと、いつも想っているんだ。


もうすぐ19歳になる私の娘が産まれた時、この手に抱いたその存在の大きさに打ち震えながら、ごめんなさいとも思った。

女の子。女の子であった私が子どものころから、今までぶつかってきた問題にぶつからないと約束できない世の中に、私の「子どもが産みたい」というエゴのもと産まれたのだから。

子どもの存在は未来そのものだ。

その未来である娘に、私ができることは何か?

私が考えたこと、それはいつもごきげんなお母さんでいることだった。

娘にも後に産まれた息子にも、私の「機嫌」に振り回される子どもになって欲しくなかった。一番身近な大人である、私の顔色をうかがって欲しくなかったのだ。

いつもごきげんでいること。単純に思われるかもしれないけれど、これはなかなか難しかった。

うまくいかなかったことだって沢山あったけど、いつもごきげんなお母さんでいるために、必要なものとそうでないものの取捨選択はしてきたと思う。


いつもごきげんでいることの他に私にできることは自分で躓いてきたこと失敗したこと、恐かったこと、辛かったことなどを包みかくさず話すことだった。

逆上がりができないまま大人になったこと。
いじめに遭ったこと。
大切な友人が病で亡くなったこと。

本当は心の底にしまっておきたいことも話してきた。

だから、娘も息子もわりと色んなことを相談してくれた方ではないかなと思う。

ただ、私の未来である子どもたちが将来「あの時のお母さん、すごく嫌だった」と言うことがあるかもしれないとも常に考えている。

私は未熟な人間のひとりに過ぎないのだから、子どもたちをまるきり傷つけずに育ててきたとは言えない。

その時は素直に謝って、でも産まれてきてくれてありがとう、と言えたらいい。

育児について考える時、私はいつも大好きなフランソワーズ・サガンの言葉を思い出す。

でも息子のドニがいて、はじめて、わたしを批判する権利のある人が前にいるという感じがするのです。それで思いどおりに自分を見てくれる眼を、突然自分の人生の中に感じるのは、何とも言えないすばらしいことです。

フランソワーズ・サガン『愛と同じくらい孤独』より





子どもたちが大人になった時に私は相談もできる、楽しい話し相手になれていたらいい。そう切に願いながら、自分の中に湧き上がる愛情というものの重さに振り回されないようにしなければと自戒するのだ。


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