思考とは何か?
「人間は自然のなかでもっとも弱い一茎の葦にすぎない。だが、それは考える葦である」といったのは、17世紀フランスの思想家 パスカル ……そんな「考える葦」である人間の “思考” について、今回は学んでみる。
人間は “考えること” で、マインド超素材(形態化される前の振動数の高い マインド)をじぶんの ノエティカル体(5次元の体)の中に ノエティカル・イメージ(印象や映像など)として形態化している。そのイメージ(形態)が エレメンタル なのだ。
そうやって創られたエレメンタルはすべて、現在のパーソナリティー の一部である 潜在意識 にストックされる。例え忘れてしまっても、バイブレーション的に共鳴する “興味” が引き金となって活性化される。すると、そのエレメンタルは創られたときと同じイメージ、状況、現象などを再現し、特定の波動……感覚や欲望を沸き上がらせる。その感覚や欲望などの波動が 、“思考” がつくったエレメンタルに生命力(存在を維持する力)を与えている……という性質を正しく汲み取り、ダスカロスは「欲望-思考型エレメンタル(人-悪魔)および「思考-欲望型エレメンタル」(人-天使)と呼称する。
“思考”はノエティカルな、“感情”はサイキカルな、“欲望”は サイコ-ノエティカル な創造力であり、これら3つの創造力のうち、もっとも力を持っているのが “思考” だ。“思考” はノエティカル界(5次元)の創造力ゆえ、“思考” をマスターすれば 分離の次元 および 3つの体 のマスターになれるといっても過言ではない。が、残念なことに、ほとんどのひとは “思考” を 潜在意識 的にしか使えてないため、「人-悪魔」(エゴイズム)に翻弄されて苦しむ、、、
「真理の探究者」は “思考” を潜在意識的ではなく、“自己”意識 的に使えるようにならなくてはいけない。その取り組みが実れば、 “思考” は “創造的思考” となり、世界と生命の創造を担うことができるようになる……が、“創造的思考” は誤用が許されない。アトランティス時代末期、人類は “創造的思考” を誤用してカタストロフィーを引き起こし、その カルマ として “創造的思考” の能力を喪失した……といわれている。
アチューンメントとアットワンメント
“思考” は、波動的な性質を持っている。
一般的な “思考” は、人間が何かに気づき、その対象に “興味” を抱くことから始まる。人間が何らかの対象を “興味” を持って “注視する” とき、対象の波動(光)は視神経と脳を刺激するだけでなく、サイコーノエティカル体の エーテル・センター も刺激している(注視していなくても、自然に人間は周辺環境のエーテルに自己を拡張しているが…)。人間はエーテル的な知覚で「対象の波動(形態)」を認識すると同時に、「対象の波動が引き起こす波動(思考)」も認識しているのであるが、これは「対象の波動」と「観察している人間の波動」の “同調” といえる仕組みで、そうやって対象の中にじぶんの思考を拡張することを アチューンメント という。
「真理の探究者」はアチューンメントを通じ、マインド超素材が持つミラクルな性質を体験的に理解してゆく。
“思考”(形態化されたマインド) は、じぶんと世界を映す鏡なのだ。
ダスカロスのいう “光” とは、物質界の光だけではなく、サイキカル・ライト、ノエティカル・ライト、ノエティック・ライト などの非物質界の光もトータルに含んでいる。“光” は波動であり、生命であり、創造力であり、絶対無限の存在から放たれる全なる愛……
あらゆるものを形づくる根源的な “光” と一体化することで、すべてを “超自己”意識 的に理解できるようになる……が、そのレベルに一足飛びに到達するのは不可能ゆえ、まずは地道に何らかの対象の “光”(形態という波動)に意識(注意力)を固定することからレッスンしてゆく。意識の固定は、「外側にあるもの」「物的なもの」だけでなく、じぶんの「内側にあるもの」「非物質なもの」に対してもできる。「意識を固定している対象の波動(形態)」と「対象が生じさせた波動(思考)」を同時に深く味わっていると、“思考” が言葉や映像や経験を超えたものであることがわかってくる。
通常の意識状態では「意識を固定した対象」と「じぶんの思考」が分離しているが、アチューンメント や アットワンメント(一体化)では、分離のない状態で対象を認識する。
アチューンメントやアットワンメントは、対象を外側から観察するのではなく、時間と空間を超えて「対象の波動」(光)と「じぶんの波動」(光)を “同調” あるいは “同化” させる。その後、意識を固定することで “思考” が生じ、その “思考” がもたらすのは知識ではなく、“智恵” と呼ぶべきものである。
アチューンメント、アットワンメントの場合、探索対象はどんなものでも、どこにあっても、どんな時代のものでも、次元が異なっていても支障はまったくない。3000年前の人物でも、地球の裏側にある建物でも、はるか遠い宇宙の銀河でも、瞬時に対象を知ることができるのだ。ダスカロスは、「真理の探究者」はこの方法を使えるようにならなくてはいけないという。しかし、振動数の高いノエティカル界(5次元)やノエティック界(6次元)レベルの対象に、物質界(3次元)やサイキカル界(4次元)の振動数で同調することはできない。高次の光であるノエティカル・ライトやノエティック・ライトはすべての人間の知覚に届いてはいるが、それらを感知できるか否かは、受け取る側の振動数しだいなのだ。
アチューメントやアットワンメントは、「分離の次元」に属するエレメンタルの憑依や共鳴ではない。5次元の高次プレーン以上になると、善を “知恵”、悪を “無知” などのように、単純な二元論ではない形で物事を認識できるようになる。アチューメントやアットワンメントは分離的な波動(感覚や思考)に影響されることなく、高次の波動から対象を完全に把握する6〜7次元的な能力だ。
アチューンメントもアットワンメントも、ある種の “思考”(形態化したマインド)といえるが、それはわたし達が通常の意識レベルで用いる “思考” とは異なっている。それを正確に理解するには、マインド超素材を狭量なパーソナリティーではなく、“自己認識-魂” が創る印象として受け取れるようにならなくてはいけない。
“内なる自己” へ認識を拡大してゆこう。それが、現段階では想像もできない可能性を啓いてゆく……が、前述の通り、知識と能力の拡大にはリスクと責任が伴う。
マインドの誤用(エゴイズム)のカルマは重い、、、じぶんと神を愛するひとならば極めて慎重に、パーソナリティーに潜むエゴイズムに手綱をかけるだろう。