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【ダスカロスの教えに学ぶ16】思考とは何か?、アチューンメントとアットワンメント(「真理の言葉」第7章より)


思考とは何か?

「人間は自然のなかでもっとも弱い一茎の葦にすぎない。だが、それは考える葦である」といったのは、17世紀フランスの思想家 パスカル ……そんな「考える葦」である人間の “思考” について、今回は学んでみる。

思考」の本質とは何でしょうか? あなたは「思考」を何だと思いますか? ある人が考えるという時、その人は意識的に考えているのでしょうか、自己意識 的に考えているのでしょうか、あるいは 潜在意識 的に考えているのでしょうか、それともただ自動的に考えているのでしょうか? このレッスンの目的で考えるかぎり、潜在意識的に考えることは、その人にあまり役立つことはないでしょう。

そこで、「思考」とは何でしょうか? すでにお話したように、すべては マインド で、超素材か、素材か、あるいは超物質です。この段階では、マインドの最も低い波動の状態で物質と呼ばれているものについては触れません。しかし、すべてはマインドなのです。

思考」とは一つの形態であり、「考えること」とは、果てしないマインド超素材の大海の中から、それを得る方法なのです。マインド超素材は、表現がなされていない形態のないマインドとして、既に存在しているのです。私たちはそれに所定の方法でを与えます。すなわち、私たちがそれを “形態化” して、私たちの内なる世界である ノエティカルイメージ、あるいは映像として表すのです。そして同時に、それらを私たちの周りの環境の ノエティカル界 へ エレメンタル として投影するのです。

このことが「思考」であり、「考えること」であると今まで考えたことがありますか? 「思考」は、マインドの形態化であると言えます。それは特定の映像イメージのように、ある一定の形態マインドと言えます。今まで人類は、これらのイメージを完全に自動的に創り出すことを学習してきました。これらのイメージは、その人の人生や環境で発見される目標や希望や欲望の産物なのです。

しかし、その人は自分の思考が何であるかを分析したことがあるでしょうか? 何が原因となって「思考」が現われるのでしょうか? 誰が考えているのでしょうか? 「考えること」と言われている作業の目的結果は何でしょうか?

誰でも自分の眼に留まってから、すなわち先ず気づくことから考えが起こるものです。それは、そのようにしないとできないのではなく、ただそれ以外の方法に習慣付けられていないからに過ぎません。人は現象界の物質レベルにおいて、何かを求める瞬間には、自分自身の中に一定の感情を引き起こす必要があり、それがその人自身の中で思考を表現する始まりとなります。

もちろん、真理の探究者は成長するにつれて、異なる世界(物質界、サイキカル界、ノエティカル界)の現象から帰結的に、かつ独立した形態で、マインドを利用できることが分かるようになるでしょう。しかし、普通の人は、このようなことをまったく知る余地がありません。この方法や手法は、影響力が強いものです。すなわち、思考とは力でありそれも強大な力となるのです。これを、私たちは “創造的思考” と呼びます。

「真理の言葉」97‐99ページ

 人間は “考えること” で、マインド超素材(形態化される前の振動数の高い マインド)をじぶんの ノエティカル体(5次元の体)の中に ノエティカル・イメージ(印象や映像など)として形態化している。そのイメージ(形態)が エレメンタル なのだ。

そうやって創られたエレメンタルはすべて、現在のパーソナリティー の一部である 潜在意識 にストックされる。例え忘れてしまっても、バイブレーション的に共鳴する “興味” が引き金となって活性化される。すると、そのエレメンタルは創られたときと同じイメージ、状況、現象などを再現し、特定の波動……感覚欲望を沸き上がらせる。その感覚欲望などの波動が 、“思考” がつくったエレメンタル生命力(存在を維持する力)を与えている……という性質を正しく汲み取り、ダスカロスは「欲望-思考型エレメンタル(人-悪魔)および「思考-欲望型エレメンタル」(人-天使)と呼称する。

思考”はノエティカルな、“感情”はサイキカルな、“欲望”は サイコ-ノエティカル創造力であり、これら3つの創造力のうち、もっとも力を持っているのが “思考” だ。“思考” はノエティカル界(5次元)の創造力ゆえ、“思考” をマスターすれば 分離の次元 および 3つの体 のマスターになれるといっても過言ではない。が、残念なことに、ほとんどのひとは “思考” を 潜在意識 的にしか使えてないため、「人-悪魔」(エゴイズム)に翻弄されて苦しむ、、、

「真理の探究者」は “思考” を潜在意識的ではなく、“自己意識 的に使えるようにならなくてはいけない。その取り組みが実れば、 “思考” は “創造的思考” となり、世界と生命の創造を担うことができるようになる……が、“創造的思考” は誤用が許されない。アトランティス時代末期、人類は “創造的思考” を誤用してカタストロフィーを引き起こし、その カルマ として “創造的思考” の能力を喪失した……といわれている。

アチューンメントとアットワンメント

思考” は、波動的な性質を持っている。

一般的な “思考” は、人間が何かに気づき、その対象に “興味” を抱くことから始まる。人間が何らかの対象を “興味” を持って “注視する” とき、対象の波動(光)は視神経と脳を刺激するだけでなく、サイコノエティカル体  エーテルセンター も刺激している(注視していなくても、自然に人間は周辺環境のエーテルに自己を拡張しているが…)。人間はエーテル的な知覚で「対象の波動(形態)」を認識すると同時に、「対象の波動が引き起こす波動(思考)」も認識しているのであるが、これは「対象の波動」と「観察している人間の波動」の “同調” といえる仕組みで、そうやって対象の中にじぶんの思考拡張することを アチューンメント という。

「真理の探究者」はアチューンメントを通じ、マインド超素材が持つミラクルな性質を体験的に理解してゆく。

思考”(形態化されたマインド) は、じぶんと世界を映すなのだ。

マインドミラー(鏡)と言うことができるのではないでしょうか? すなわち、ノエティック・ミラー、ノエティカル・ミラー、そして、サイコ-ノエティカル・ミラーであり、どんな願いでも映し出すことができるのです。私たちが知っている周辺にあるではなく、ノエティカルライトサイキカルライト を通して見ることができます。私たちが自分の自己を探究する時、私たちは “永遠の存在” として、自分自身のことを単なる “情けないパーソナリティー” と考えているよりはるかに大きな存在であることに気づくことでしょう。そうです……私たちは何かもっと偉大な存在なのです。

私たちは今までマインドを潜在意識的に、また機械的に使ってきましたが、最終的には “永遠の存在” として、自分の意志でマインド意識的に使えるようになるのです。あなたは、このことを認識していますか?

今話しましたように、マインドはノエティック・ミラー、ノエティカル・ミラー、そしてサイコ-ノエティカル・ミラーであり、その上に映し出し集中することにより、あらゆるものを探究し知ることができるのです。もちろん、私たち自身も知ることができるのです。

「真理の言葉」107ページ、一部の太字化はNoelが実施

あらゆる対象物 存在 を私たちにもたらしてくれます。もし、その集中すれば、によって存在を与えられているもの完全に把握することができるでしょう。従って、内省 において、いろいろな状態を認識できるようになり、もっと多くの ノエティカル・ライト(もっと後に、ノエティック・ライト)が照らされ、内省と探索を通じて、対象物に焦点を絞れるようになる時、以前には単に興味がないために焦点を合わせることができずにいた物事にも完全に焦点が合わせられ深い理解を得ることができるようになります。この「焦点を絞る」という表現が意味を持っています。

このように、ある物事に意識を固定することは、物事をもっと完全に知ろうとするときの必要前提条件となります。この「意識を固定する」あるいは「焦点を絞る」という表現が意味を持っています。

このように、ある物事に意識を固定することは、物事をもっと完全に知ろうとするときの必要前提条件となります。この「意識を固定する」あるいは「焦点を絞る」とは、誰が行うことでしょうか? どこに意識を固定するのでしょうか? どのような方法で意識を固定することができるのでしょうか? これらすべては探索されるでしょう。思考を使って、私たちはどのように探索するのでしょうか? 結果的に、私たちは循環の中を回り続けています。そして、私たちが同じ超素材を絶え間なく使い続けていることが分かります。その同じ素材から、私たちが今の瞬間に身に付ける汚れたぼろ着が創られているのです。また、その同じ超素材が、信じられないほどの美しい光で輝く衣類になります。それは「自己認識」が身に付けるものです。この詳細にある深い意味に意識を向けて下さい。

このように、私たちの探究はマインドと、そのマインド思考へ形態化する私たち自身の能力の内でなされるもので、その思考が私たちに仕えてくれるのです。私たちは思考のようなもので、それを通してあれやこれやを見ていることを理解していなくてはなりません。

しかし、これは初期の段階であり、後に私たちは別の領域、すなわちもう一つの探究方法に入っていきます。その時、私たちはどんな対象物にも意識を固定しません。かえって、その対象物から離れても、それを理解しなくてはなりません。このことは、私たちがマインド超素材を通して、対象物の知識を得ることだけではなく、別のさらに優れた方法があるということを意味しているのです。それは、私たちが如何なる対象物とも一つになれ、それから意識を固定することができるということです。私たちは、これを「アットワンメント」(一体化)と呼んでいます。この「アットワンメント」は、知識に導くものではありません。その初期段階を「アチューンメント」と呼び、後の段階を「アットワンメント」といい、これが智恵へつながるものなのです。従って、智恵は知識ではありません。知識とは智恵へ導くものです。このように、知恵が知識と異なることを理解しておきましょう。

「真理の言葉」108‐109ページ、一部の太字化はNoelが実施

ダスカロスのいう “” とは、物質界の光だけではなく、サイキカル・ライト、ノエティカル・ライト、ノエティック・ライト などの非物質界の光もトータルに含んでいる。“” は波動であり、生命であり、創造力であり、絶対無限の存在から放たれる全なる愛……

あらゆるものを形づくる根源的な “” と一体化することで、すべてを 超自己意識 的に理解できるようになる……が、そのレベルに一足飛びに到達するのは不可能ゆえ、まずは地道に何らかの対象の “”(形態という波動)に意識(注意力)を固定することからレッスンしてゆく。意識の固定は、「外側にあるもの」「物的なもの」だけでなく、じぶんの「内側にあるもの」「非物質なもの」に対してもできる。「意識を固定している対象の波動(形態)」と「対象が生じさせた波動(思考)」を同時に深く味わっていると、“思考” が言葉や映像や経験を超えたものであることがわかってくる。

通常の意識状態では「意識を固定した対象」と「じぶんの思考」が分離しているが、アチューンメント や アットワンメント(一体化)では、分離のない状態で対象を認識する。

アチューンメントアットワンメントは、対象を外側から観察するのではなく、時間と空間を超えて「対象の波動」(光)と「じぶんの波動」(光)を “同調” あるいは “同化” させる。その後、意識を固定することで “思考” が生じ、その “思考” がもたらすのは知識ではなく、“智恵” と呼ぶべきものである。

アチューンメントアットワンメントの場合、探索対象はどんなものでも、どこにあっても、どんな時代のものでも、次元が異なっていても支障はまったくない。3000年前の人物でも、地球の裏側にある建物でも、はるか遠い宇宙の銀河でも、瞬時に対象を知ることができるのだ。ダスカロスは、「真理の探究者」はこの方法を使えるようにならなくてはいけないという。しかし、振動数の高いノエティカル界(5次元)やノエティック界(6次元)レベルの対象に、物質界(3次元)やサイキカル界(4次元)の振動数で同調することはできない。高次の光であるノエティカルライトノエティックライトはすべての人間の知覚に届いてはいるが、それらを感知できるか否かは、受け取る側の振動数しだいなのだ。

アチューメントやアットワンメントは、「分離の次元」に属するエレメンタルの憑依や共鳴ではない。5次元の高次プレーン以上になると、を “知恵”、を “無知” などのように、単純な二元論ではない形で物事を認識できるようになる。アチューメントやアットワンメントは分離的な波動(感覚や思考)に影響されることなく、高次の波動から対象を完全に把握する6〜7次元的な能力だ。

アチューンメントもアットワンメントも、ある種の “思考”(形態化したマインド)といえるが、それはわたし達が通常の意識レベルで用いる “思考” とは異なっている。それを正確に理解するには、マインド超素材を狭量なパーソナリティーではなく、“自己認識” が創る印象として受け取れるようにならなくてはいけない。

内なる自己” へ認識を拡大してゆこう。それが、現段階では想像もできない可能性を啓いてゆく……が、前述の通り、知識と能力の拡大にはリスク責任伴う

マインドの誤用(エゴイズム)のカルマは重い、、、じぶんと神を愛するひとならば極めて慎重に、パーソナリティーに潜むエゴイズムに手綱をかけるだろう。