愛はイデアではない
今回は「真理の言葉」第5章を題材に、愛について考えてみる。
“神聖なる愛” は、何かが形づくられるときの 原型としてのイデア ではない。
“神聖なる愛” は 絶対存在(神、創造主)そのものであり、また、宇宙に存在するあらゆるものの原因 として放射される “創造の光” なのだ。つまり、わたし達は “神聖なる愛” を、“原因”(絶対存在の本質) と “表現”(創造の光) という2つの異なったステージで捉えることができる……と、ダスカロスはいう。
「マクロコスモスの愛」と「ミクロコスモスの愛」
ダスカロスの教えるマクロコスモスとミクロコスモスの愛について、それぞれ簡単にまとめてみた。
マクロコスモスの “神聖なる愛” は、自己の内側を完璧かつ永遠に満たすものである。一方、ミクロコスモスの “世俗的な愛” は、自己の外側で生じる一時的現象でしかない……が、分離の次元(3~5次元)もまた、“神聖なる愛” の内にあることを忘れないでおこう。
自己意識 が成長して “自己”意識 になると 自己認識-魂 として “自己” を表現するようになり、“神聖なる愛” の光を放射しはじめる。さらに “超自己”意識 に達すると、絶対存在と一体化する(テオーシス)。
“神聖なる愛” を理解するには、自己の範囲をどんどん拡大し、誰でも、どんなものでも、じぶん自身と感じられるようになる必要があるとダスカロスはいう……が、これをそのまま言葉通りに捉えると、勘違いしてしまうかもしれない。
ダスカロスは生まれながらすでに “自己”意識 に達していたので、アチューンメント や アットワンメント(一体化)の際、大天使たち が自然にやっているように、対象の持つ高次の側面(神聖なる法則、共通の自己性 など)にのみ同調できたのだと思う。しかし、エゴイズムに占拠されたパーソナリティーのひとが、単純に「波動を同調させるだけ」と解してやってしまうと、対象の持つ低次の側面(本能、エゴイズムなど)に共鳴し、ネガティブなバイブレーションを強化してしまう危険性がある。
ダスカロスが 7つの約束 と 内省 を強く勧める理由が、これでわかっていただけるのではなかろうか?
というわけで、今後の課題は以下に設定する。
この取り組みは、来世においても大いに役に立つだろう。
洗礼者ヨハネとサロメ
ダスカロスの「ジョシュア・イマヌエル キリスト 地上での生涯とその教え」の中に、“神聖なる愛” と “世俗的な愛” の理解に格好の題材がある。
それは、洗礼者ヨハネナン(ヨハネ)と シャローメ(サロメ)のエピソード……シャローメは、新約聖書で「ヘロディア(ヘロデヤ) の娘」として登場している。
ヨハナンがヘロデに対し、「兄弟の妻をめとるのは、よろしくない」といったのは、単にそれだけの意味ではない。
ヘロデがじぶんの兄フィリポの妻ヘロディアと不倫したせいでフィリポは死に、ヘロデの妻アレッタが宮殿を追われ、それが原因でアレッタの父であるアラビヤ王がヘロデに宣戦布告して多数の人間が命を落とし、さらにヘロディアの娘シャローメは、叔父であり義父でもあるヘロデの愛人になった、、、という惨状へのヨハナンの嘆きが含まれている。
そしてあろうことか、シャローメはヨハナンに不道徳な欲望を抱き、彼を誘惑したのだ、、、が、ヨハナンはそれを穏やかに退ける。
ヨハナンを聖者として畏怖していたヘロデはシャローメを嗜め、「ヨハナンを従者として宮殿に呼び寄せたい」という彼女の考えを改めるようにいった。一方、シャローメの母ヘロディアは好奇心を抱き、ヨハナンの洞窟を訪れる……が、彼に「ここはあなたやあなたの娘のような、恥知らずの姦婦の来る場所ではない」といわれ激怒する。
ヘロデ王家の人々には、ヨハナンの「教え」も、「望むもの」も、「到達した境地」も、すべてが理解できないものだったのだ、、、
それなのにシャローメは、懲りずにヨハナンに迫る。
ヨハナンは、恵まれた容姿と知性を悪用することなく、エッセネ派の中でもとくに厳しい修練を課す道に志願した。彼は2人の同志と共に洞窟で暮らし、野蜜を集めて食べ、人々に真理の教えと洗礼を授けた。いかなる誘惑にも屈さず正しくあり、絶対存在に仕え、神聖なる計画 に完全に従って生きることがヨハナンの本望ゆえ、ヘロデ王家(が象徴する反キリスト者)の背負ったカルマの浄化のために、命を捧げたのではなかろうか?
シャローメはヨハナンの首を求める前に、7つのヴェールの踊りを舞った。これは、オスカー・ワイルド の芝居「サロメ」に登場する創作とされている。
が、その7つのヴェールの踊りをダスカロスは実話として書いている。なので、ワイルドとダスカロスは同じ事象にアチューンメントし、実際の場面をアカシック・レコードから読み取ったのではなかろうか?
シャローメは踊りながら身につけた7枚のヴェールを1枚ずつ剥ぎ取り、それをヘロデとヘロディアに捧げた。
7枚のヴェールを、ヘロデ王家の人々が捨て去った美徳(「人―天使」)と、代わりに背負った悪徳(「人-悪魔」)に対応させることができる……と思った(枚数は素肌に近い順)。
ヘロデは放縦と怒り、ヘロディアは傲慢と衝動と嫉妬、シャローメは残った2枚の私利私欲と世俗的な愛……で、彼らに欠けている美徳もそれによってわかる。
聖なるものとしての7色は、以下の解釈も可能だろう。
ヨハナンはヘロデ王家の人々に対し、憐れみ以外の感情は何一つ抱かなかった。ヘロデ王家の人々は、ただ無益な肉体の死をもたらしただけで、ヨハナンの正しく清い心に傷一つつけることができず、重たいカルマを背負うことになった……が、その事実を彼らはまったく理解しない。
それは、イエスを十字架にかけた人々と同じである。そして、十字架上のイエスは愚かな人々のために、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らはじぶんが何をしているのか、わからないのです」(新約聖書、ルカによる福音書23章34節)といって、彼らの過ちを赦した。それと同様に洗礼者ヨハナンも愚かな人々の過ちを赦し、無垢のまま天なる父のもとに還った。