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【ダスカロスの教えに学ぶ14】“神聖なる愛”と“世俗的な愛”(「真理の言葉」5章より)/洗礼者ヨハネとサロメ


愛はイデアではない

今回は「真理の言葉」第5章を題材に、について考えてみる。

とは何でしょうか? もちろん、という言葉は、それ自身の意味を持っています。しかし、それは誰にとっても同じものなのでしょうか? ある人がこの言葉を使う時、時間と場所の領域(Noel註:分離の次元)で自己中心的な欲望を満たすことを意味しているかもしれません。では、とは一体何なのでしょうか?

と呼ばれる イデア は存在するのでしょうか? 多くの人たちはについて誤解し、を ノエティックステート に存在するイデアや 原因法則 の世界における多くのイデアの一つとして捉えています。しかし、そうではないのです。これらの世界は、宇宙を創造し創り上げるために 神聖なる智恵善性 を拡張する必要性に仕えるものですが、イデアではありません

は 絶対存在としての神 そのものなのです。という言葉はそれ自身の意味を持っていますが、の意味を混同しないために、このを “神聖なる愛” と呼ぶことにしましょう。

神聖なる愛が、不滅の光であるという時、人間が理解できる “” は、蠟燭の灯りや電灯やスポットライト、あるいは太陽にもたとえることができるでしょう。時間と場所の領域におけるは、神聖なる愛の一つの現象に過ぎないのです。私が「である」という時、現象としての人間が自分たちの眼で見ることができるということを意味していません。なぜなら、サイキカル・ライト、ノエティカル・ライトノエティック・ライト、そしてスーパーライト があるように、すべては光であるにも拘らず、人間の眼は、波動周波数の限られた範囲にしか対応できていないからです。

または神聖なる愛は、絶対存在 であり、聖なるモナド 絶対存在の部分であり、そのワンネスの中にあり、またその 多重性 の中にもありますので、聖なるモナド本質でもあります。

神聖なる愛” は、何かが形づくられるときの 原型としてのイデア ではない

神聖なる愛” は 絶対存在(神、創造主そのものであり、また、宇宙に存在するあらゆるものの原因 として放射される “創造の光” なのだ。つまり、わたし達は “神聖なる愛” を、“原因”(絶対存在の本質) と “表現”(創造の光) という2つの異なったステージで捉えることができる……と、ダスカロスはいう。

「マクロコスモスの愛」と「ミクロコスモスの愛」

ダスカロスの教えるマクロコスモスミクロコスモスについて、それぞれ簡単にまとめてみた。

【マクロコスモス愛】

*“神聖なる愛
7次元 にあるワンネス
絶対存在そのもの
神聖なる自己充足性
全宇宙創造している 聖霊 と キリストロゴス 本質
最初にしてあらゆるものの “原因
絶対存在自身の中自身を顕わすときの “表現
無償無条件無限与え続けられる

全宇宙は、絶対存在一体であるキリストロゴス聖霊の “神聖なる愛の放射が “原因“ となり、マインド から形づくられた “表現(現象)” として存在している。

【ミクロコスモス愛】

*“世俗的な愛
分離の次元5次元)における
現在のパーソナリティーという “中心” を持つ
*“中心” の周囲(外側)を巡る “現象
見返りを求める
有限
満足することなく一時的
差別的

分離の次元(時間-空間-場所の領域)においては、「最も低い動物的な愛の表現」から「最も完璧な愛の表現」のすべておいて、「現在のパーソナリティー としての自己」という “中心” があり、その外側を「という “現象”」が回っている。

マクロコスモスの “神聖なる愛” は、自己の内側を完璧かつ永遠に満たすものである。一方、ミクロコスモスの “世俗的な愛” は、自己の外側で生じる一時的現象でしかない……が、分離の次元(3~5次元)もまた、“神聖なる愛” の内にあることを忘れないでおこう。

あなたは、神聖なる愛にない宇宙、すなわち 物質界、サイキカル界、ノエティカル界、そしてノエティック・ステート など考えられますか?

最も恐ろしい地獄は、サイキカル界ある領域であり、実際にサイキカル界のサブ・プレーンに相当しますが、これらの地獄神聖なる愛の内にあり、先ず痛みから解放するためにポジティブな力が彼らに行使され、後に光との同化に導かれることになります。

がおられるところには、神聖なる愛が存在しています。神聖なる愛が何であるかを理解する時、私たちの同胞である人間へ向けられるが、どのようにあるべきかもまた理解することができるでしょう。その愛は最愛なる主キリストによって「隣人を自分のように愛しなさいなぜならあなた自身であるから」と語られています。

人間が分離の世界幻想から解き放たれる時、彼らは「自己認識自己」として、誰とでも一つであることに気づきます。物質界で愛と呼ばれている現象が回っている中心として、もはや私たち自身を見なくなる時、私たちは神聖なる愛に入っていくことでしょう。この時が、おそらく私たちのパーソナリティーがそれぞれの「自己認識」と同化したと、私たちが最初に感じる瞬間でしょう。無限なる愛の光の中で、パーソナリティーの完全化が実現するのです。すなわち、パーソナリティーが、その「内なる自己」に入ることを意味しています。

「真理の言葉」86‐87ページ

自己意識 が成長して “自己”意識 になると 自己認識-魂 として “自己” を表現するようになり、“神聖なる愛” の放射しはじめる。さらに “超自己”意識 に達すると、絶対存在と一体化する(テオーシス)。

神聖なる愛” を理解するには、自己の範囲をどんどん拡大し、誰でも、どんなものでも、じぶん自身と感じられるようになる必要があるとダスカロスはいう……が、これをそのまま言葉通りに捉えると、勘違いしてしまうかもしれない。

ダスカロスは生まれながらすでに “自己意識 に達していたので、アチューンメント や アットワンメント(一体化)の際、大天使たち が自然にやっているように、対象の持つ高次の側面神聖なる法則共通の自己性 など)にのみ同調できたのだと思う。しかし、エゴイズムに占拠されたパーソナリティーのひとが、単純に「波動を同調させるだけ」と解してやってしまうと、対象の持つ低次の側面(本能、エゴイズムなど)に共鳴し、ネガティブバイブレーション強化してしまう危険性がある。

ダスカロスが 7つの約束内省 を強く勧める理由が、これでわかっていただけるのではなかろうか?

というわけで、今後の課題は以下に設定する。

1、じぶんの霊的成長優先する
2、「欲望思考型エレメンタル」(エゴイズム)を非活性化する
3、正しく思考し、ポジティブな 思考欲望型エレメンタル つくる
4、“神聖なる愛”の理解に努める

この取り組みは、来世においても大いに役に立つだろう。

洗礼者ヨハネとサロメ

ダスカロスの「ジョシュア・イマヌエル キリスト 地上での生涯とその教え」の中に、“神聖なる愛” と “世俗的な愛” の理解に格好の題材がある。

それは、洗礼者ヨハネナン(ヨハネ)と シャローメ(サロメ)のエピソード……シャローメは、新約聖書で「ヘロディア(ヘロデヤ) の」として登場している。

さて、イエスの名が知れわたって、ヘロデ王 の耳にはいった。ある人々は「バプテスマのヨハネ(Noel註:洗礼者ヨハナン)が、死人の中からよみがえってきたのだ。それで、あのような力が彼のうちに働いているのだ」と言い、他の人々は「彼は エリヤ だ」と言い、また他の人々は「昔の預言者のような預言者だ」と言った。ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首を切ったあのヨハネがよみがえったのだ」と言った。

このヘロデは、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤ(Noel注:ヘロディア)をめとったが、そのことで、人をつかわし、ヨハネを捕えて獄につないだ。それは、ヨハネヘロデに、「兄弟の妻をめとるのは、よろしくない」と言ったからである。そこで、ヘロデヤヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。それはヘロデが、ヨハネ正しくて聖なる人であることを知って、彼を恐れ、彼に保護を加え、またその教を聞いて非常に悩みながらも、なお喜んで聞いていたからである。

ところが、よい機会がきた。ヘロデは自分の誕生日の祝に、高官や将校やガリラヤの重立った人たちを招いて宴会を催したが、そこへ、このヘロデヤ(Noel註:シャローメ)がはいってきて舞をまい、ヘロデをはじめ列座の人たちを喜ばせた。そこではこの少女に「ほしいものはなんでも言いなさい。あなたにあげるから」と言い、さらに「ほしければ、この国の半分でもあげよう」と誓って言った。そこで少女は座をはずして、に「何をお願いしましょうか」と尋ねると、は「バプテスマのヨハネの首を」と答えた。するとすぐ、少女は急いでのところに行って願った、「今すぐに、バプテスマのヨハネの首を盆にのせて、それをいただきとうございます」。

は非常に困ったが、いったん誓ったのと、また列座の人たちの手前、少女の願いを退けることを好まなかった。そこで、はすぐに衛兵をつかわし、ヨハネの首を持って来るように命じた。衛兵は出て行き、獄中でヨハネの首を切り、盆にのせて持ってきて少女に与え、少女はそれをにわたした。ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、その死体を引き取りにきて、墓に納めた。

新約聖書、マルコによる福音書6章14-29
太字化はnoelが実施

ヨハナンヘロデに対し、「兄弟の妻をめとるのは、よろしくない」といったのは、単にそれだけの意味ではない。

ヘロデがじぶんの兄フィリポの妻ヘロディアと不倫したせいでフィリポは死に、ヘロデの妻アレッタが宮殿を追われ、それが原因でアレッタの父であるアラビヤ王がヘロデに宣戦布告して多数の人間が命を落とし、さらにヘロディアの娘シャローメは、叔父であり義父でもあるヘロデの愛人になった、、、という惨状へのヨハナン嘆きが含まれている。

そしてあろうことか、シャローメはヨハナンに不道徳欲望を抱き、彼を誘惑したのだ、、、が、ヨハナンはそれを穏やかに退ける

憐れみの表情を目の中に表し、ヨハナンはその女性を見つめ、優しく言った。「シャローメがあなたに赦し与え彼の道導いてくれれば善いのだが……。さあ、行きなさい。そして再び戻って来ないように。ここにあなたの場所はない。ここが私の居場所だ。あなたの宮殿である地獄に戻りなさい。ここは、2人の聖なる男により聖別された私の愛する場所だ。私はこの天国である洞窟を愛している」 そして、もう一度はっきり言った。「どうか、ここを離れて下さい」

「ジョシュア・イマヌエル キリスト」88‐89ページ
一部の太字化はNoelが実施

ヨハナンを聖者として畏怖していたヘロデはシャローメを嗜め、「ヨハナンを従者として宮殿に呼び寄せたい」という彼女の考えを改めるようにいった。一方、シャローメの母ヘロディア好奇心を抱き、ヨハナンの洞窟を訪れる……が、彼に「ここはあなたやあなたの娘のような、恥知らずの姦婦の来る場所ではない」といわれ激怒する。

ヘロデ王家の人々には、ヨハナンの「教え」も、「望むもの」も、「到達した境地」も、すべてが理解できないものだったのだ、、、

その冬、ヨハナンは説教と洗礼により、彼の心を完全にアラーハ(Noel註:アラム語の神)とジョシュアに捧げた。ジョシュアの頭上に聖霊を観て、自分の従兄弟が「最愛なる子」であるとのアラーハの声を聞き、ヨハナンベニアラーハ(Noel註:アラム語で神の子)に奉仕すること以上のものは何も必要としなかった。

彼は洞窟の中に座っているだけかもしれないが、彼のはかつてないほど “エルシャダイ”(ロゴス)であるジョシュアアチューンメント(同化)して、言葉に言い表せない喜びを覚えていた。

「ジョシュア・イマヌエル キリスト」90ページ

それなのにシャローメは、懲りずにヨハナンに迫る。

シャローメはわがままであるのと同じほど執拗な性格であったので、ヨハナンを探し出し、恥をかかせてやろうと決めていた。彼女はベンジャミンという家事の召し使いを連れて、こっそりと洞窟を尋ねた。

ヨハナンはその聞く耳を持たない頑固な女に諭すように、彼女の心にある理性のない思考や欲望を浄化するように言った。ところが、シャローメはこの上ない正しい助言に逆上し、ヨハナンに影響を与えている別の女がいるのではないかという疑いを確かなものとした。それにより、彼女は仕返しをする決意をした。

ヘロディアもまた、この隠遁者の侮辱にもはや耐えることができないと決意し、ヘロデのところに行き、ヨハナンが王家を侮辱し、間違った非難で人々を煽動していると話した。彼女はヘロデに彼を捕えて、投獄するように求めた。ヘロデヨハナンを聖人と考えていたが、この場に至ってサンヘドリン(Noel註:パレスチナにおけるイスラエル人の宗教的権威、最高法院と呼ばれている)に助言を求めた。それに対する大祭司の答えは、このエッセネ派の修道士ヨハナンの活動がモーセの律法を犯しているので、それらに終止符を打つことをにせき立てるものであった。

そして、ある日の昼頃に、ヨハナンが説教をし、洗礼を施している時、の兵士が彼を捕え、引きずって行った。彼の信奉者のある者は、それを阻止しようとしたが、ヨハナンは彼らに抵抗しないようにと言った。彼を捕えた兵士たちは、エリコの宮殿の地下牢に彼を投げ込んだ。この逮捕劇のニュースを自身から聞き、ヘロディアは至極満足した。

「ジョシュア・イマヌエル キリスト」91ページ

ヨハナンは、恵まれた容姿と知性を悪用することなく、エッセネ派の中でもとくに厳しい修練を課す道に志願した。彼は2人の同志と共に洞窟で暮らし、野蜜を集めて食べ、人々に真理の教え洗礼を授けた。いかなる誘惑にも屈さず正しくあり、絶対存在に仕え、神聖なる計画 に完全に従って生きることがヨハナン本望ゆえ、ヘロデ王家(が象徴する反キリスト者)の背負ったカルマの浄化のために、命を捧げたのではなかろうか?

シャローメはヨハナンの首を求める前に、7つのヴェールの踊りを舞った。これは、オスカーワイルド の芝居「サロメ」に登場する創作とされている。

が、その7つのヴェールの踊りをダスカロスは実話として書いている。なので、ワイルドとダスカロスは同じ事象にアチューンメントし、実際の場面をアカシック・レコードから読み取ったのではなかろうか?

シャローメは踊りながら身につけた7枚ヴェールを1枚ずつ剥ぎ取り、それをヘロデヘロディアに捧げた。

シャローメ7枚目のヴェールを取り、(Noel註:ヘロデ)の足もとに供えた。踊り手の技量を示すかのように、再び踊りのテンポが速められた。シャローメ6枚目のヴェールを取り、彼女の母親(Noel註:ヘロディア)の足元に置いた。そのパートナーはホールを去り、シャローメは1人となり、6人の女踊り手と一緒に血のように赤いローブで踊った。それから、彼女のパートナーは乾いた木材のような色のパンツを身につけて現れた。彼は床に横たわり、その周りを女踊り手たちが舞った。シャローメはやって来て、彼の胸の上に座り、身体全体を動かし、腕や手を炎のように揺らめかした。それは乾いた薪に火が燃え上がったような幻想を生み出した。来賓たちは酔ったようになり、シャローメへの称賛を隠すことができなかった。それを見たヘロディアは、ほくそ笑み満足気味だった。シャローメは炎の踊りで着ていた血のように赤いローブを脱ぎ、へ差し出した。

再びリズムが速められた。今度、シャローメスカイブルーエメラルドグリーンのヴェールを身に付け這い回る蛇となり、彼女の美しい若い肉体を際立たせ、すばらしい技量の踊りを披露した。そのブルーグリーンのヴェールを取り、彼女のである王女にそれらを差し出した。そして女王の間に座して休んだ。

「ジョシュア・イマヌエル キリスト」96-97ページ

7枚のヴェールを、ヘロデ王家の人々が捨て去った美徳(「人―天使」)と、代わりに背負った悪徳(「人-悪魔」)に対応させることができる……と思った(枚数は素肌に近い順)。

枚目(純白):神聖なる愛 ⇔ 世俗的な愛
枚目(カナリヤ・イエロー):利他 ⇔ 私利私欲
枚目(エメラルド・グリーン):自己充足 ⇔ 嫉妬
枚目(スカイブルー):理性 ⇔ 衝動
枚目(赤):神聖なる喜び ⇔ 怒り
枚目(バイオレット):謙虚 ⇔ 傲慢
枚目(黒):節制 ⇔ 放縦

ヘロデは放縦怒り、ヘロディアは傲慢衝動嫉妬、シャローメは残った2枚の私利私欲世俗的な愛……で、彼らに欠けている美徳もそれによってわかる。

聖なるものとしての7色は、以下の解釈も可能だろう。

枚目(純白):絶対存在、聖なるモナド
枚目(カナリヤ・イエロー):キリスト・ロゴス
枚目(エメラルド・グリーン):聖霊
枚目(スカイブルー):大天使ガブリエル
枚目(赤):大天使ミカエル
枚目(バイオレット):大天使ラファエル
枚目(黒):肉体、天使シャマエル

ヨハナンヘロデ王家の人々に対し、憐れみ以外の感情は何一つ抱かなかった。ヘロデ王家の人々は、ただ無益な肉体の死をもたらしただけで、ヨハナン正しく清い心に傷一つつけることができず、重たいカルマを背負うことになった……が、その事実を彼らはまったく理解しない

それは、イエスを十字架にかけた人々と同じである。そして、十字架上のイエスは愚かな人々のために、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らはじぶんが何をしているのか、わからないのです」(新約聖書、ルカによる福音書23章34節)といって、彼らの過ちを赦した。それと同様に洗礼者ヨハナンも愚かな人々の過ちを赦し、無垢のまま天なる父のもとに還った。