「内省」によって正しく考え、「観察力」と「集中力」を身につけて内なる自己 へと入ってゆくと、肉体の中で働いている 大天使たち と意識的なコンタクトがとれるようになり、真実の自己を見出すことができるようになる……とダスカロスはいう。
自然に映し出された 絶対存在の意志の喜び ……そこに、わたし自身の 永遠のパーソナリティー が透けてみえる。だから、晩年のライフワーク として、「水源の森と海をつなぐひとになろう」と思ったのだろう。川は、絶対無限の存在 から放射される 全なる愛、全なる智恵、全なる力 の象徴……子供の頃、川で遊んでいるとフッと源流をみたくなり、上流に向かって歩きはじめたことが何度もある。
その声は、つねに魂と共にあった……わたしは自然の美と創造性に触れることで、息苦しい 現在のパーソナリティー を 永遠のパーソナリティー の中に解放してきた。
鉱物、植物、動物は、大天使や人間のような永遠の存在ではない。すべて一時的な存在であり、絶対存在と永遠の存在たち によって創造されたものなのだ。大天使及び彼らのエレメンタルである天使と自然霊は マインド を使い、全なる智恵 を「鉱物、植物、動物」の感受性、感覚能力、本能として顕在化させている。
人間と大天使はどちらも 聖なるモナド がルーツであるが、マインドの使い方に大きな相違がある。
大天使はマインドを正しく使うが、人間はマインドを誤用する。
人間のパーソナリティーが「マインドの誤用」という エゴイズム に支配されている限り、大天使のように宇宙や生命現象の創造を担うことは許されない。そして、「マインドの誤用」の代償はすべて、誤用した当人が支払うことになっている。そうやって、宇宙はバランスを保っているのだ。
原因と結果の法則(カルマ)について、ハラランボス・ランバート氏は以下のように説明する。
「原因と結果の法則」は基本ひじょうに正確に働く……が、時に 神聖なる慈悲 によって、背負いきれない負のカルマが解消されることがある。イエスが背負った十字架は、地球人類が個人として、集団として、民族や国家として、地球全体として背負ったエゴイズムのカルマと、エゴイズムから抜け出す学びの象徴といえる。
イエスは、「じぶんの十字架を背負って、わたしについてきなさい」といった。
さまざまな心配事や問題に心が折れそうになったときは、祈りが役に立つ。
カルマに怯むことはない。カルマはレッスンを学び、正しく考えることができるようになるためにある。人間はいつか必ず自身のエゴイズムを十字架に掛け、完全なる勝利と自由を得る……それが自然な在り様なのだ。