打ち水と飴ちゃん 江戸雪

 ここ数年、気温が高くなりはじめた六月頃から九月の終わりまで、打ち水をするようになった。本来の打ち水は庭先や玄関、家の前の道などにするのだろう。だが大阪市内の町工場が立ち並ぶ準工業地帯に住んでいると、家の前をトラックや営業車やフォークリフトがしょっちゅう通る。朝から呑気に水など撒いていると「優雅なこっちゃな〜」と湿度の高いもやもやした声も聞こえてきそうな、打ち水のできる雰囲気ではない。だからわたしは、屋上を水浸しにするという方式をとっている。

 真っ白の大きな花が咲く大輪朝顔、小ぶりの花がたくさん咲くヘブンリーブルー、枝をのびのびと這わせオレンジの甘い花を咲かせる凌霄花、丸い葉っぱがかわいいユーカリ、そして今年も実がたわわに生っているオリーブといった順にたっぷりと水を遣ったあと、そのままホースからでるシャワー状の水を天にむかって放つ。これがまた爽快だ。世界中を水びたしにしているようなおおらかな気持ちになれる。子どものころ、噴水のなかに入ってみたい衝動にたびたびかられたものだが、いま自分がその噴水になったような気さえしてくる。

 さて、それは朝と夕に実行する。実行しながら、気づいたことがある。朝の水と、夕べの水。これは全く別物だということ。同じ蛇口から出て、同じホースを通って、同じシャワーヘッドから噴き出す水のどこが違うのか、という疑問を持つひとはぜひ一度うちの屋上に来てみてほしい。

 朝は、夜のうちに沈んだ水蒸気や埃が空気中にまだじっとしているから、太陽から届く光は遮ぎられるものがなく透きとおってきらきらしている。わたしが撒いた水はその眩しい光を受けてさらに透明に輝き、晴れの日は鮮やかな虹をつくる。その虹が見たくて、何度も何度もくりかえし水を空に向かって撒く。ここまでくればおとなの立派な遊びである。そんなふうにして遊んでいると、蝶々や蜻蛉がやってきたりもする。わたしの楽しそうなこころが呼び寄せたのだなとおもう。
 一方で、夕べの水はぼんやりと輝く。いうまでもなく、日中のうちに舞い上がった埃や水蒸気を含む空気にあたる陽射しは、乱反射してこちらにまっすぐ届かない。そのやわらかい陽射しをうける水はほんとうにぼんやりと、ちょっと寂しそうに屋上を濡らすのだ。ところどころにできた水たまりを眺めて立ち尽くしてしまうこともたびたびある。そこに死者が立ち上がってきそうにも見えるのだ。
 その水のありように気づいてからは、打ち水が楽しみで仕方ない。朝は爽快、夕べはどこか懐かしい気持ちになりながら打ち水をする。こうして打ち水は、わたしの日常に小さな目的をもたらしてくれるようになった。目的をひとつでも持つと、ひとは生きるのが楽しくなる。打ち水に生きがいを感じるなんて、われながら何と隠微な楽しみだろう。

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 もうひとつ、夏の暑さを凌ぐという打ち水の効果についてあらためて書きたい。なぜなら、その打ち水の効果によって隣家の杉山さんとの新たな交流がうまれたのだから。

 わたしが朝な夕な打ち水をしている場所は、三階の部屋から出ることのできる二階部分の屋上だ。つまりちょっと大きめのベランダのような場所で、そこは隣の杉山さんのビルの壁や窓に面しているといった具合だ。わたしが打ち水をすると、冷んやりした風がどうやら杉山さんのビルの窓に届くらしい。打ち水ははからずも杉山さんの楽しみにもなっていたということか。
 水を撒きながら、日除けのすだれごしに杉山さんの窓が開いていることには気づいていた。ある日、杉山さんの家の前を通りかかると、三輪自転車に跨りちょうど出かけるところの杉山さんにばったり出会った。杉山さんは「いつもありがとうなあ、涼しいわ」とだしぬけに話しかけてきた。初めは何のことだか分からなかった。つづいて「水撒いてくれてなあ」と杉山さんが言ったしゅんかん、ああ打ち水のことか、と気づいたのだった。それ以来わたしは、すだれごしの杉山さんを感じながら、打ち水をするようになった。杉山さん、涼しいかなあと時折おもいながらの打ち水も不思議に楽しいのだった。

 打ち水のお礼にということだろうか、杉山さんは旅行や帰省のたびにお菓子やジュースといったお土産を持ってきてくれるようになった。先日くれた〈くまモン〉のチョコはおいしかった。またあるときは、風邪気味のせいで咳をしながら家の前を掃いていると、わざわざ家から出てきて飴をくれた。杉山さんはたぶん八十歳をゆうに越したおじいちゃんである。飴ちゃんをくれるのは世によく言われる「大阪のおばちゃん」だけではなかった。大阪のおじいちゃんも飴をくれるのだということも判明したのだった。
 こうした、打ち水がきっかけの杉山さんとの心の交流もまた隠微な楽しみである。これからも夏がくるたびに日焼けなど気にせずわたしは打ち水をし続けるだろう。そのうちもっと歳をとれば、それが健康法になったりするのではないかと予感している。

 そしてなにより、わたしの撒いた水が世界中を少しでも涼しくしてくれて、夏の平安がやってきますようにと願いつづける。

  打ち水はつかのま世界を光らせておもしろきかなびしょ濡れの足  
                        江戸雪

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