じゃんけんに負けたい/江戸雪

先日、とあるグループで新年会をした。出席者の大方は60代から90代といった人生の先輩にあたる方たちで、10名ほどの会だった。乾杯ののち前菜が出て魚料理もおいしくいただき次の肉料理を待っていたら、グループの一人が宴を盛り上げようと「ゲームを始めます」と立ち上がった。

始まったのは〈じゃんけん負けましょうゲーム〉。前に居るその人が出したグー・チョキ・パーに負けるように瞬時に判断して手を出さねばならない。つまり、グーをだされたらチョキ、パーを出されたらグーをといった具合に。なんだ、そんなかんたんなゲームを…と高を括って始めたこれ、意外にむずかしく冷や汗をかく結果となった。負けるための手を瞬時に返すことは不可能で脱落者が続出。ちなみにその逆の、勝つ手を返すのはとてもかんたん。試しにやってみたら、狼狽えることもなく勝ち続けることができるのだった。

これはどういうこと?人間は勝つためには反射的に反応できるけれど、負けるための思考や反射神経は鈍いということなのかしら。もしかすると、そんな行動研究をしている学者が世界のどこかにいるかもしれない。でも私はその学者を識らないから、ひたすら人間の勝とうとする性質をおもわずにはいられない。

帰りの電車のなかでそんなことをつらつらと考えていたら、小学生の頃、友だちとのじゃんけんにわざと負けたことが何度かあったことをふいに思い出した。

詳しい場面は忘れているが、例えば自分が勝ってばかりで相手に悪いとおもったときもあったし、勝ってしまうと自分がそこに身の置き場がなくなる(勝たないと気が済まないひとが目の前にいる)と判断したときもあった。とにかくつまり、じゃんけんに負けたい、と強く願った一瞬があったのだ。負けたい、負けなければいけない。そうすることで自分が守られる。そう判断したのだとおもう。あのとき、私は相手にばれないようにうまくじゃんけんに負けることができたのだろうか。瞬時に、グーにはチョキを、チョキにはパーを出せたのだろうか。

いつの間にか淀川が桃いろに暮れているのを眺めながら、じゃんけんに負けたかった私はちっとも悔しくなく、悲しくもなかったなとさらに思い出す。むしろ、それでいいのだという自信をもっていたようにおもう。もし、誰かに「負けろ」と指示されていたら、そうはいかなかった。なんで私が負けなければいけないのだと反発しただろう。でも、自分で「負ける」と決めたから。それは自分のなかでは負けではなく、どちらかというと勝ちに近い負けだった。

スポーツを観るのが好きで、それも野球やサッカー、バスケットボール、相撲、マラソンなどには熱くなり、勝負が決まったときにはスカッとする。一方で体操やアイススケートのように評価点をつけられて勝敗の決まるスポーツを観るときは、なるべく鑑賞することに専念するようにしている。それはそれで楽しいものなのだが、ホームランやスリーポイントシュートや鮮やかなドリブルにはかなわない。
おそらく誰かが決める勝負には興味がないのだ。不公平なジャッジや反則などをねじ伏せるくらいの強さによって決まる勝敗を垣間見たいのだろう。

好きなアスリートやチームが勝つとうれしい。
けれど、負けたときのほうが強く惹かれる。

プレーについてあれこれ言うこともあるのだが、負けたときにこそそのひとの本当の顔が見られるのがたまらない。
負けると、人間の表と裏がひっくりかえる。表に見せていた顔はいつの間にか裏にまわり、隠していた顔が露わになる。私はそれを見ていいものなのか迷いつつ、どこか後ろめたい気持ちになりつつ、やっぱり見つめる。

勝つのも負けるのも決めるのは自分。そうおもっていると生きるのも楽になる。さいきんそうおもう。

ついでに希望を言うと、負けながらときどきどうでもいいことで大笑いしていたい。

    冬の山遠くに見つつくちびるにあたるスプーンの冷たかりけり
    すれちがう時間を生きるこいびとのすれちがう眼のなかの冬陽よ 
                    江戸雪『駒鳥(ロビン)』


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