稽古場までの時間
あっという間に稽古は2週間が経った。
先日初めての通しを終えた。
スタッフの皆さんにも見てもらい、終わった後は出演陣らといろいろと喋って、帰路についた。
帰路。
稽古場から滞在させてもらっている家まではおよそ2時間の道のりだ。
往復4時間という時間。
ちょっと前までいた国でいえば住んでいた街からロバート・ウィルソンやクリスチャン・フリーデルを観に行っていた劇場がある街までかかる時間と同じぐらいだ。
まあその国とは違い、電車は時間通りに来る。急に電車が運行しなくなるみたいなことはない。
ただ電車の乗り心地は向こうのほうがよかった。座席が低すぎて腰と足が疲れてしまう。かといって立ちっぱなしはしんどい。一長一短の移動だ。満員電車もあんまりない。サッカーの試合があるときか連休のときぐらいか。
さて、電車の中を見渡してみる。
異常なほどの広告の数にまず心が折れる。映像モニターにもずっと同じ内容のものが流れてくる。人々はそのディスプレイから目を背けるように手元の小さなディスプレイに目を向ける。もっと大きな外が見えるディスプレイには目を向けない。
首も目も頭も肩も背中も手元の小さな画面の引力に引っ張られて下を向いている。
外に目を向けてみる。
見えるのはビルと電線と家。
あーこれは外を見ていても飽きてしまう。
じゃあ誰かと喋ろうか。
いやだめだ。おしゃべりは厳禁。周りから白い目を向けられてしまうぞ。
誰かが言っていた。
今は現実のほうが小説より奇だ、と。
手元で瞬間的にエンタメを消費できるから、現実の反省ができる劇場から人が遠ざかってしまった。
確かに人が人の尊厳を失っているようにも感じてしまう、まるで、機械仕掛けの人形のようだと感じなくはない。時間が来たら動きが止まってしまいそうな、そんな怖さもある。彼らの瞼はエネルギータイマーだ。ただ残量は常に50%も満たない。彼らのエネルギーは瞬間的な休息を繰り返すことでなんとか保っている。この彼らに必要な「ハレ」とは何か。
音楽演劇「冠婚葬祭」はこういった彼らに向けて作られているはずだ。疲れてどうしようもなくなった日常を照らすのが「冠婚葬祭」のようなハレである。ケに帰ることは容易い。だからこそ、どうしようもなく愛おしい小さくて幸せな自分にとってのハレが必要だろう。
関係ないかもだが、僕が敬愛してやまないBUMP OF CHICKENに「You were here」という曲がある。この曲はライブなどのハレを体験した全ての人のその直後を描いているような楽曲だ。
曲というのは全て、そのようにハレを味わい、そこでのエネルギーをケまで残してくれる作用があるのだろう。それは時代が変われど常にそうだったはずだ。
https://youtu.be/56GHcXHpHJQ?si=7ZCAP9QHImByQkqu
さて、そんなことを考えながらボーッと電車に乗ってると、目の前に杖をついた人がやってきた。付き添い人も一緒だ。みんなまだ下を見ている。僕はいい人ぶりたかったのか、すぐにその人に声をかけて席を譲った。そしてその杖をついた人と付き添いの人は明るい声で挨拶をしてくれた。その後も2人は電車の中で明るく話している。あー素敵だ。僕は電車の中での話し声が割と好きなんだと、最近気がついた。自分も自由でいられるような気がする。劇場でもある瞬間はそうであってほしいと願い、電車から降りたのだった。
今日もまだ旅の途中
出会いは一瞬にして、名残はいのち終わる時まで
それもまた無情の美、繋がらない人間関係に想いを巡らせ
明日また会えたらいいなと、心の中で呟き
2度と会えない明日に、涙を預けた