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教壇に立ち続ける 108 「考え方を教える」授業をつくる

あけましておめでとうございます。年末はしばらく勉強の時間を取らせていただきましたが、おかげさまでこうして復活できました。お待たせしました。今回のお話は教育について、「考え方を教える授業」を模索するというテーマで語っていきます。この記事を読んで、参考になったなーとか、いいなと思って頂けたらサポートをお願いします。真面目に収益化したい。今日は「お役立ち資料」も更新しますので、そちらも興味がある方はぜひ。1日1本必ず書く、というよりも「書くことができたら書く」というスタイルに変えてみます。だから不定期更新になってしまいますが、これからもご愛顧を賜りますようお願い申し上げます。minneとFantiaはこちら。徐々に記事や作品も増えています。この冬にひと段落つけたい。よろしくです。

考え方を教えることの重要性

このテーマで1本執筆しようというきっかけになったのは、久しぶりに読み返したマーヴィン・ミンスキー博士の著書「創造する心」に書いてあった文言でした。

考え方を学ぶ場としての学校の在り方

このフレーズを前に、私は自分の知見の浅さを恥じました。
私のやっている古典の授業などは、自分で教材を選んでからはマシになったものの、正直「ここの助動詞は打消で……」みたいな、定番で王道でオーソドックスで、何より退屈な授業をしてしまっていたことに気付いたからです。
そりゃ生徒も寝るよ。だって知識の詰込みにしかなっていないのだから。
私はもっと知的に面白い授業を構想したい。どうやったら知識の教え込みにならないようにできるのか、「暗記しなければならないことが多い」とか「国語はセンス」とか言われないようにするためにはどうしたらいいのか。今まで受けてきた授業をそのまま再現しているだけの私の中に、その「古典の考え方を伝える」授業のビジョンが無かったことに愕然としました。このままではいけないと思って今回このような記事を書くことにしたわけです。

国語における「考え方」を教えるために

まず国語はセンスなのか、という議論は不毛なのでしませんが、断言だけはしておきます。センスじゃない。知識と技術だ。
一見センスに見える部分(ここが先ほど引用した「考え方」の部分ですね)を教えるためには、最低限の知識は必要だと思います。助動詞の活用と意味くらいは自分で覚えないと、古文は読めるようにならないし、句形や返り点の法則を知らないと漢文は読めるようになりません。だから中学生や高校1年生の段階では、知識を先に教えておくことが大事だと考えます。ただ、それを高校2年、3年まで引きずっているようでは、「古典は実用的じゃないから自分は学ばなくてもよい」と思われても仕方がないのかもしれません。新しく出てきた知識は覚えてもらわねばなりませんが、もっと鑑賞というか、雑学的なことも含めて実戦問題を解きながら批評することも大事なのだと、勉強していく中で気づきました。

「古典の考え方」を身につけるために、何が求められるのか。ここからは生徒と教師に分けて話を進めていきます。

生徒の心構え

生徒には最低限の知識と、現代文や今までの他の教科でも培ってきたであろう「求められている答えを探す能力」と「幅広い知識を繋げて批評的に作品を鑑賞する眼」を養ってもらいたいですね。求められている答えはひとつに定まりますし、ひとつに定まったものを「どうしてこの答えでなければいけないのか」「この答えになる必然性はどこにあるのか」を検討する技術は、様々な場面で活用できますし、育成してきているはずです。だからこそ、学習者(生徒)の側にこの基本的な「問題をよく読んで答えを導き出す力」が無ければ話になりません。
また、批評的に作品を鑑賞するのも、実際に様々な作品を読んで「これは自分に合わなかった」とか「面白かった」とか、そういう内省しながら読んでいく経験をしながら学んでいってほしいです。私は一度読んだらどんな文章でもだいたい内容を覚えているのですが、それができないのはまず興味が無いからですよね。興味が無ければ覚えることはしない。その興味を持つための働きかけは本来教師が行うものです。しかし受け止める学習者(生徒)も「先生はこう言っているけれど、その情報は本当なのか?」とか「面白いからもっと違う作品を読んでみたい」という(良きにしろ悪しきにしろ)考えるきっかけになる内発的な動機を持っていないと、どんなに教えても意味がないです。学ぶのは生徒たち自身なのだから。

教師の心構え

教師にもたくさん求められるものがあります。まずは正確な古典に対する知識。教える側があいまいな情報をもとに(あるいは、間違った情報を更新せずに)教えるのはもってのほかですし、その知識の中から生徒に訊いてみたい発問や生徒の素朴な疑問への答えが生まれます。私も古典が専門というわけではないので、この1年は頑張って勉強しながら指導にあたります。
そして授業の構成を見直す能力。今まで自分が受けてきた授業、行ってきた授業のダメなところを洗い出して分析することも肝要です。
私の場合は今回「古典を教え込みでなくするための方法」を模索して、「文法だけをひたすら教えるからつまらないんだ」という結論に至りました。生徒はたぶん、文法は全部暗記しなきゃいけないものだと思っていて、しかも土台になるの知識もあやふやだから、いっそう古典の授業の内容が知識の詰め込みに見えるのでしょう。だからまずは「どこがわからない?」から始めたり、「作品の中で○○がキーワードになるけれど、それに対する自分の中のイメージって何?」と訊いてみたり、とにかく間口を広げることから始めます。そのうえで知識を教える時間と鑑賞する時間(批評の技法を活かすこともできるとわかったので、これは実践できそうです)に分けて指導したらどうか……と考えています。
教師が自分の中に「国語的考え方」(いわゆる物の見方・考え方というやつですね)を持っていないといけないな、とも思いました。自分がどのように学んできたか、答えを導き出すプロセス(それはどうやって考えているから答えられるのか)等、教え方以外にも毎回分析した方がいい項目があると思うのです。来学期からは「自分の思考もリフレーミングする」ことを目指します。

まとめ

ミンスキー博士は「自己批評」「内省」という言葉を非常に重視されていました。来年度から新しくなる学習指導要領の中でも、この2つは確実にキーワードになると確信しています。物の見方・考え方を身につけるために、内省を取り入れる、そのためのリフレクション活動だとも思いますし。だから来学期からはまた初心に返って「リフレクションで生徒の考えを見つめ、私と一緒にその変化をたどっていく」授業を作り上げたいです。もう一度、教壇に立ち続ける決意を固めるために。それでは、また。

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