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教壇に立ち続ける 77 「論理」と「文学」を架橋する【note限定記事】

最近はたくさんの先輩方からアドバイスや情報を頂けているので、あれこれ実践しながら粛々と記録をつけています。どうも星野です。今回のお題は「文学と論理」について。分断するカリキュラムがいよいよ始まるということで、今の所感を書き留めておきます。9月の定期更新日は水・土。この記事を読んでいいなと思って頂けたらサポートをお願いします。minneとFantiaはこちら。両方でシリーズ商品を打ち出すことにしました。作風の幅だけは広いので、気に入ったものがあればお手に取って頂ければうれしいです。私も早く在庫を整理したい。よろしくです。

はじめに

文部科学省からのお達し(学習指導要領改訂)により、再来年度からカリキュラム変更があります。教育にあまり興味がない方でも、「論理国語」「文学国語」等々目にする機会はあるかと思います。
多くの先生方は、この「論理」と「文学」を分けることに反対されています。だって、文学の中に論理はあるし、論理的な文章を伝えようとするためには文学的な側面も含まれるものだからです。
だから私も、「論理と情緒的なもの(≒文学)って、分かれるものなのですか?」というのをまず世に問いたいのですが、それは多くの方がご指摘くださっているかと思いますので、趣向を変えて「どうやってこのカリキュラムのもとで架橋していくか」について考えてみたいと思います。

実践の一例

先に述べた通り、文学の中にも論理はあります。それは私が授業で実践しているような「批評」の活動が代表的なものだと考えています。だから今の私の小説や詩歌の授業は、多少のアレンジは必要でしょうが、根っこの部分(基本的なコンセプト)はそのまま論理国語に活かせると思っています。
私の小説の授業では、定時制だろうが学力が低かろうが徹底的に批評の理論を教えますし、テストでも批評文を書かせたり、テクスト理論の歴史的な背景についても出題します。古文も同じです。背景になる知識や文法を指導したうえで、生徒に「作者の意図」「表現の工夫」などを問うことが多いです。もちろん横並びでうまくいかないこともありますが、それでもできる限り教養とテクニックを定着させ、本当の意味での読解の活動(アクティブラーニングなどという安直な言葉にはならない、もっと深い学び)を指導していこうと努力しています。2年目なので成果は出ていないに等しいですが、それでも日々授業を「知的に高負荷で刺激的なもの」にしようと格闘しています。
そんなところでカリキュラムの変更がきて、私としては「国語総合を3年間通してやるのではなぜいけないのか」という疑問に対する答えが見つかっていないのですが、実用文にこそ文学的な表現が求められると思っているので、そこをどうにかして架橋していこうとしているのです。

バランスを取る

架橋の方法として重要だと私が考えているのは、何よりも「読むことと書くことのバランスをとる」ことです。
論理的な文章を読んだら、それを自分はどう感じたのか、何を訴えていると思ったのか(これは情緒的な側面ですね)を書く。そして帯文やアオリを書いてみる。評論文でなく実用文(生徒会役員規約など)だったら、伝わりやすい表現や情緒に訴えかけるメッセージ性とは何かを考える。
小説や詩歌を読んだら、表現技法に注目して分析し、多くの先行研究として挙げられている論文を読んで内容をまとめ、ポスターセッション等で発表する。テクスト理論を応用して、がっつり批評活動を行う。教科横断も適宜入れる。
(※参考になりそうな記事はこちら)

こういう活動はどちらに「論理」と「文学」のどちらに分類したらいいのかわからないからだめだ、とおっしゃる方もいるかもしれません。けれどもそのふたつはもともと不可分なものなので、強引に分けて教える方がおかしなことになると思うのです。
他にもTRPGやボードゲームを使って架橋する方法もあります。最近知ったのですが、「作者人狼」というのがありまして、それぞれ参加者が小説を書いてきてそれをシャッフルし、自分の作品を当てられないようにするゲームなのだそうです。実際に大学などで実践されている方もいらっしゃいます。それを応用して、小説とまではいかずとも短歌や俳句を詠んで自分の作品だと悟られないようにするために策略を巡らせる、というのはできるだろうなと考えています。やっぱり「論理」と「文学」のふたつを分断してしまったその罪は重いです。

おわりに

私は勝手気ままな人間なので、カリキュラムが変わっても独自の「型」で授業をすると思うのですが、完全なるカリキュラム通りの授業は「独創性と個々の生徒への配慮」という点で、また制約を無視した授業は「教えるべき内容の不足と全体のバランス」という点で、どちらも欠けていると思います。だからこそ多くの教師同士で話し合って、意見をすり合わせながら独自にカリキュラムを練っていく必要があります。生徒のためを思うなら(この「生徒のため」というのも厄介で、私のように非常勤講師として働いているとどこまで身を削るべきか悩むのです)、多様性と柔軟性、そして一貫性を意識して編成していく必要があるのではないか、と思うなどしています。
まだ教材も見ていませんが、現場で教えるスキルがある程度ついた今ならば提案できることもあるだろうと思って今回このような記事を書きました。教えるのは楽しく、そして苦しいものですが、命を懸けるだけの価値はあるし、覚悟もしたので、これからも滅びゆく学校空間で教壇に立ち続けます。それでは、また。

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