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他人の目を気にして生きてきた私が「本当の私」を見つけて詩人になってみました(前編)

「本当にやりたいことがわからない」と葛藤し続けていた昔の私。紆余曲折してたどり着いたのは、「自分とつながること」だった。
ずっとずっと燻っていた「文章や言葉を紡ぎたい」という願いに気づいてしまった。


おこがましい…けど、やりたい

子供の頃は絵を描くよりも、友達と外で遊ぶよりも、小説の中に入り込んで、冒険したり知らない世界を見たりすることが好きだった。
徒然なることを日記に書くことが好きな子供だった。

だけど、そんなことをしていても友達とは仲良くなれなくて、社会で生きていくためにはみんなが興味のあることを知るのが近道だった。いつしか自分の興味の対象を世間のみんなが興味があることへ移していた。(それでも、その世界に完全に入り込めなくて葛藤していたのだけれど。当時の私はそのことにすら気づいていなかった)

「私の世界は退屈」その信念が形成されて、自分を表現することが怖くなっていたのだと思う。
誰にも覗かれないように、私の世界の扉を閉めてしまった。

それからは「本当の私」ではなく、世間や常識が良しとする評価軸で生きていた。
高価なブランド物やジュエリー、可愛い服やコスメ。おしゃれなレストランや高級ホテル。
そんなもので飾り立ててSNSにアップして「いいね」をもらえれば幸せになれると信じていた。
だけど結局残るのは虚しさだけで、何が違うのか、何が正解なのかをずっと考えていた。

「好きなことをして生きていきたい、だけどそれがわからない」
「やりたいことがわからない」
地下鉄の電車の窓に映る自分の顔を見て、世界に絶望したことを覚えている。

どうにかしたいと、不安に駆り立てられるように行動した。
興味があることに引っ張られるように動いてみた。
(その「興味」も世間一般的なものであったから、結局は満たされないのだけど)

そんな私が変わるきっかけとなったのが「足りないものはなく、すでにあなたのなかにある。特性や強みをみていきましょう」と伝えてくれたコーチ兼友人との出会い。彼女は歪みまくった私の信念や思考を、否定も肯定もせずあるがままにしてくれた。

ホムパオタクの友人宅

それから2年。
今年9月のセッションの中で「詩の個展を開こう!」という話になっていた。
2年前の私には考えられない話。
「詩の個展しました」なんてSNSではまったくキラキラしないし映えないし世間の誰も求めていない。
少なくとも私の友達で「詩」に触れる人がいるなんて聞いたこともなかった。(あくまで他人軸で生きていたときの友達)

「詩を書いてみたい!」という願いはずっとあった。子供のころから触れてきた身近な行為であり楽しみ。
だけど「個展を開く」???
なんて畏れ多いことなんだろう。
なんでもない私がそんな大それたことをしてもいいのか。
誰がそんなものを見たいのか。
いろんな不安を伴った疑問が生まれた。

そんな不安を知ってか知らずか、コーチは「受け取ってくれる人はいます。でもそれはやってみないと分からない」

本当だろうか?私の拙い詩を、受け取ってくれる人がいるのだろうか?
疑問というよりは、恐れだった。本当は誰も見てくれないのでは?「下らない」と心の中で笑われるのでは…?心に暗雲が立ち込めた。怖くて仕方ない。人に見られるなんて想像するだけで恐ろしい。

それでも「書きたい」という心からの願いに抗うことはできなかった。
だって、せっかく「本当の願い」が出てきてくれたのに。
2年前の私なら、その願いに蓋をするのは簡単だったと思う。
だけど「本当の私」とつながり始めた今は、その願いを無視することは困難だった。

それに、受け取ってくれる人がいないなんてことはないと、どこかで理解していた。少なくともコーチは受け取ってくれるだろう。
他にも応援してくれる人がきっといる。

怖いけど、とりあえずやってみよう。
ずっと抑えていた願いが顔を覗かせたのだから。
「誰かに見てもらう」というよりは「私が私のために、私を喜ばせるために、言葉を紡ぐ」。
微風に吹き飛ばされそうな頼りない勇気を奮い立たせて「やってみます」と開催を決めた。



今までにない高揚

個展をする、と決めたものの、ちゃんとした詩なんて書いたこともない。
「うまくできるのか」「テーマとか決めないといけない!?」「何をどうすれば!?」「こんな私が個展なんて畏れ多いよなぁ」
頭の中は混乱して騒ぎ立てているけれど、心はとても喜んでいた。

世間の評価ばかりを気にする私は、自分の感情や個性に蓋をして、自分を表現することを恐れていた。
だけど、何よりも大事なのは「私を喜ばせること」だと気づいて、それを実行しようと思った。誰のためでもなく、自分のために、言葉を紡ぎ、それを披露する。

まずは創作だ。そのためにはいろんな詩に触れてみよう。
そう思い立って図書館に行って詩の本を借りたり、詩人のイベントのアーカイブを見たり、好きな本を読んでみたり。
今まで書いたものを引っ張りだして、使えそうなものを探したりもした。

そのすべてが、とてもとても楽しかった。
「詩の個展を開く」という新しい目的を得た。それだけで「いつもの風景」が違っていた。
木々の葉から落ちる太陽の木漏れ日や白い雲の浮かぶ晴れやかな空。空気さえも踊っているような感覚。
いつもと同じはずなのに、私の中から湧き立つ喜びに呼応するかのように、世界は輝いて見えた。

承認欲求の沼

詩を書くために動き出してしばらく。
いざ、書こうとしても書けない。
ぴんとこない。手が止まる。なにか違う。

「なんだろう?でも書くって決めたし、とりあえず書いてみよう」
そうして詩集を読んだり、本を読んだり。
「詩ってどうやって書くんだろう?」「何が正解なんだろう」
そんな思考が頭の隅を掠めるようになった。

自分を満足させるために書き始めたものだったのに、気になるのは「他人の目」
「詩を読んで『大したことない』『退屈』と思われたらどうしよう」
「やっぱり湾曲な表現とか、難しい単語とかあったほうが『それっぽい』よね」
今までずっと世間の評価を気にして生きてきた私が、そう簡単にマインドを変えられるはずもない。
自分が書きたいものでなく「これが"詩”だろう」という「型」に当てはめたものを書こうとしていた。
その根底にあったものは、うまく書いて「誰かに認められたい」という承認欲求だと思う。
他人の目を意識して書いてみた結果、心がときめかない。表面を滑っていって、自分自身と深くつながれない感覚。
もっと自分の中に潜って、そこから生まれてくる言葉を探したかった。

人に見てもらうことや、何かを感じてもらうこと。
それ自体は貴重でありがたい体験だと思う。
だけどそれを通り越して「かっこいいと思ってほしい!」とコントロールしようとする浅はかな考えに支配されていると気づいた。
今回の展示の目的はあくまでも「私を満たす」こと。
だから、かっこよくて綺麗でスマートである必要はない。
一番大切なのは、「私が書きたい」ものを書くこと。
やりたいようにやればいい、と思えたとき気持ちが少し楽になった。

自分の中に潜りたい

そうして、ひたすら書いていた。
「うまく書きたい」という欲求と交戦しながら、自分の中にあるものを表現したくて、ひたすら自分の中に潜り、探り、引き出し、書き出すという作業を繰り返した。
そうして書いていると、いつのまにか時間があっという間に過ぎていた。
集中というよりは没頭している感覚。時間が過ぎたことに気づいたときに、ほどよい疲労を感じることがあったり、「まだ書き足りない」とさらに続けたりすることもあった。
腹の底から溢れてくる希望や情熱のようなものを言葉に乗せた。
生きていると実感する瞬間。楽しいとか疲れたとか、そういう感覚はほとんどなく「ただここに言葉を紡ぐ私が在るだけ」という感覚。
周りから見たら、なんでもないことだろう。目立つこともないし、キラキラしてない。
だけど、そんなことどうでもよくて「今、私が心からやりたいこと」に全身全霊を向けている。それが大事だった。
今までは「こんなもの書いても仕方ないでしょ」と頭の中の声がいつも邪魔して現実に立ち返り、虚しさだけが残っていたのに。
このときの私にはそんな声などなく、遮るものはなかった。
抑制することなく言葉を紡げる。今までやりたかったことができる。 それが嬉しかった。


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