カボチャプリン、つくれる私だから。
あなたのやりたいことは、なんですか?
そう問われれば、問われるほど答えられなくなった。
選択してきたことが、間違えたと思ったことはなかった。
ゆっくりでも進んでいる実感があった。
近頃は、いわゆる幸せ貯金の時間のようで中身の見えない瓶に1円玉をためている感覚。
コロナ渦の脅威にすっかり臆病になり
行くと言った展示にもいかず、仕事以外に外に出るタイミングを掴めずにいる。こんな時に限って行きたいところがたくさんある。
休める時に休むことは大切。
でも寝てばっかりでは体力が減っていく。
だから今日はもらったかぼちゃで、カボチャプリンを作ることにした。
3分の1の大きさのかぼちゃを一人で消費するにはプリンが一番だ。
ハロウィンの企画をした時以来だ、懐かしいな。
ミキサーもオーブンも蒸せるような容器もない。
でも、炊飯器で大抵のものは作れてしまうことを知っている。
そうやって、今ある道具で知恵を使ってひとり固いかぼちゃと戦っていたら思ったんだ。
世の中のコロナが少し落ち着いた時、重い腰を上げてたくさんの人に会いに行った。
毎日のように、何をしている人なのか何がしたい人なのか問われて
また、うまく答えられなくなって。
細かくゆっくり話せば、目標はやっていること1つ1つにちゃんとあって止まることなくつくるひとをやっているはずなのに
一言になんて言い表せなくて、その時一番強い感情で思考はいっぱいになってしまう。
あった人とインスタグラムをフォローしあって、負けじとストーリーだけでも毎日動かそうって何気なく毎日やってたら
誰に見せたくて長文を打ってしまったんだろうかって、また迷子になったり。
そんな中で、何がしたいの?って聞かれてこう答えた。
家族がつくりたい、って。
幸せになりたいんだね、って言われたけどちょっと違う。
「家族」は、つくることの一番難しいものだと思った。
未だ誰も、完成していないと思う。
ひとりでは成し遂げられなくて、たくさんの人が向き合って作り上げてきた積み重ねがわたしを形作っていて。
栄養を摂ること、幼少期の教育、思い出、人格。
兄弟、親。
それらは当たり前のように存在しているけど、友達が結婚して子供を産んで親になっている姿をみて
少し前までは、遠い未来のように思っていたこと
自分ができる想像もつかないようなことを、今やっているんだ。って。
どんな人になっていくのか。
その人の幼少期の時間をつくる。
その時間は、きっとどうしたってその人の一生につきまとう。
壮大で、責任重大で、尊くて、「つくる」という意味では
膨大な時間とお金と気持ちを消費する
人生をかけた、「つくること」だ。
わたしは、家族から教わった愛の形しか知らない。
その形は人の数だけあるのだとは考えたこともなかった。
だから、恋愛をしてみて自分の愛情表現が伝わらないことや相手の愛情表現に気がつけず苦しむことを体感して
愛することってこんなに難しいことなんだと、それを表現することはもっと難しいんだと知った。
そして、家族が友達が愛情表現してくれることの数々が鮮明になってくる。
そして、
私は、わたし自身を含め愛したことが、本気で向き合えたものやことがないのではないかって。
それは、大きな大きな声を出したことがない。
大好きだった愛犬が、危ないことをしている時も怒れなかった。
適当な扱いをされた時だって、もう会わなくなるだけ。
一度だけ、家族以外にキレたことがある。
小学1年生くらいの時だったか、嫌いな女の子がひとりいた。
その子はなぜか私につきまとった。
ある日、仲良しの子と二人で遊ぶはずだったのにずっと目の前にいて帰らないその女の子に「いい加減にしてよ」と叫んで思い切り突き飛ばした。
今でも覚えているくらいに、何かがものすごく嫌だった熱くなる感覚があった。その時だけは、感情のまま自分のことしか考えなかった、動いた。
家族とはたくさん喧嘩する。
泣きながら汚い言葉を発したこともある。
怒ると、キレる、は全然違うものだ。
だけどぱっと見、怒っているのかキレているだけなのか分からないことばっかりだ。京都の人が、隣人にうるさいって伝えるのに歌が上手いんですね的な言い方をするとかってやつくらいわからない。
真剣に伝えることを「怒ること」とわたしは言っている。
真剣に伝えることって、とっても勇気がいる。
どうしても、ヘラヘラしてしまうし声は小さくなってしまうし言葉を選んでしまうし目を見れない。
面接で全てを乗り越えてきたくせに、プライベートは全然違う。
感情は表情にすぐでてしまうくせに。
良い面だけ見れば、オンオフがはっきりしていることだろうか。
そんな前提があって
話、カボチャプリンに戻ります。
今ある道具で知恵を使ってひとり固いかぼちゃと戦っていたらお母さんみたいだなって思ったんだ。
今は、お父さんみたいな人になりたい。
家族ができたら、お母さんみたいな人になりたいんだ。
(父として母としてと言うよりも、一人の人としてなりたい姿があると言った方がしっくりくる。
仲が良くていいね、愛されているんだね。って感想をいただくことがあるから、そこを伝えたいわけではないの。尊敬できる姿勢が想いがわたしにとっては身近な家族にあったと言うだけ。)
母は、わたしに、
行動力があってすごいと
有言実行していてすごいと、言う。
諦めないのがすごいって。
自分は専門学校に行くことを諦めてしまったからと。
だけど、母の手は職人の父の手と同じくらいかっこいい手をしている。
わたしにとっては、諦めている姿勢は感じたこともなく私たちのために、たくさんのものを作り続けている。
その人のために想いを込めてつくることを30年以上続けている人だ。
朝ごはんも、家族全員分のお弁当も、温かい晩ご飯も。
全部、365日毎日。
暖をとるための、薪割りも。
持ち物にある、雑巾も。
遠足に必要なリュックも。
デッサン用のバッグも。
お気に入りの小さくなった服は、トートバックにしてくれた。
お気に入りのぬいぐるみに綿を詰めなおしてくれた。
手作りのパンも、お菓子も、誕生日ケーキも。
お揃いのエプロンも、ネックレスも。
家族写真やビデオ。
アルバムやインテリア、冬には暖色の厚手のカーテンも。
庭に咲くたくさんの季節の花も。
こだわりが強くてケチな私たちの理想を形にしてくれる。
大切なものを直してくれる。
お父さんの、お気に入りの車の座席シート。
わたしの習い事の衣装。
みんなの髪も切ってくれる。
お兄ちゃんの、キーパーグローブも塗って直してた。
靴下の穴やボタンも。
きっと、もっとたくさんある。
そして、きっと父と母のおばあちゃんもそんな人だったんだ。
ひいおばあちゃんも。
時代だったかもしれない。森に住んでいて欲しいものがすぐ買えないからだったかもしれない。夢を叶えた分、我慢することも多かったろう。
だからこその形だったのかもしれない。
大企業を辞め、ど田舎に引っ越して、夢を追う父を支えながら家を守り子供三人を育てる。
今ならそれがどんなにすごいことか、わかる。
魔法使いみたいだ。
形にできる素材も道具もすぐに出てきてみるみるうちに形になる。
お父さんの作る家もそうだ。
何もない場所に、みるみるうちに何十年、何百年とのこる大きな家が建つんだ。そのほとんどがお父さんとお兄ちゃんだけで形になるんだ。
入院してみて気がついたこともあった。
入院食は三日で飽きた。贅沢な話だが、不味く感じるほどに。
母の味は、毎日何十年も食べていたのに飽きない。
今でも、食べたくて仕方なくなるほどだ。
それはもう不思議な力としか言いようがない。
ものづくりにはお互いの、人の、「想い」が必要なことを証明している。
夢を叶え続けている、形にし続ける父のようにも
家を守り家族のためにつくり続ける母のようにも
今の時代なら、どっちも目指せるだろう。
そのために、わたしだけは女の子に生まれたんだろう。
わたしもいつか、「家族」という作品に向き合える日が来るだろうか。
帰る場所に明かりを灯して、必ずおかえりって出迎えて、温かいご飯をみんなで食べる「とき」を「空間」つくれるだろうか。
喧嘩していても、泣きたいことがあるような時でも
きっと全てが嫌になることも、疲れた時もあったろう。
決して心も、身体も頑丈とは言えない母が
そんな時でも、つくりつづけていることって
強くて、優しくて、美しい。
そう言う、つくるひとになりたい。
つくりつづけたい。繋げたい。
今も、わたしは、自分のことばっかりで
すぐ疲れるし、すぐ体調壊すし、弱音も愚痴もたくさん吐いている。
だけど、小さなわたしは東京に居ることも、一人暮らしをすることも、車を運転することも、想像もできなかった。
わたしの力で、お金を稼ぎ部屋を借りて家具に囲まれ、炊飯器でカボチャプリンをつくることなんて、想像もしなかった。
今も毎日、不思議でふわふわしているんだ。
もう24歳なのにね。
もう5年目なのにね。
これがやりたいことの、ひとつ。
まだまだ、たくさんあるよ。
お父さんのようにも、お兄ちゃんたちのようにも、友達のようにも応援してくれる人のようにも、なりたんだ。
その、姿勢や想いや行動。
それから生まれる、「空間」を感じれることはもしかしたらとっても豊かで幸せで大切なんだ。
だから目に見える形をつくる、売る、と言うよりは
その先の「空間」を感じること「インスタレーション」なんだ。
人間である意味も、言葉にできそうだ。
人間にしかつくれないもの。
ここまで、書いてやっと、
なんだ迷子じゃないじゃん、ずっと変わってないじゃん。
人生をかけてやりたいことあんじゃん。ってね。
神様とか、圧倒的推しとか、何か信じてすがる形あるものではないから
それが自分自身だから、すぐ迷子になってしまう。
近すぎて見えなくなるのか。
でも、信じてる。
わたしは、見つける。
叶えていくものを、感じているものを表現する何かを。
カボチャプリン、ちゃんとつくれたから。
だから、きっとわたしもなんだってつくれる。